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 文革は、実権派とか走資派と呼ばれた劉少奇や鄧小平に代表されるグループと毛沢東、林彪に代表される“教条派”との権力闘争であり、用済みの紅衛兵は農民達に学べとして、中国西方の貧困地帯に追いやられたが、皮肉な現象が現れた。“教条派”の主張のポイントは、格差排除、平等...

1968年は訪中しなかったので、思わぬ出来事があった1969年に就いて紹介しましょう。 1、69北京上海日本工業展覧会開催の為、3月北京に出張し展覧会も順調に開催されたが、最先端技術を備えた製品は売却不可との日本政府の条件付き出品だったことが、大きな問題となった。中国...

 1966年4-5月の広州交易会参加中に、中国側の手配で人民公社見学の機会が2度あった。 農地は国有で人民公社が管理、農作業も食事も集団であった。子供達は粗末な衣服、全て裸足で、私の小学低学年時代(昭和20-22年)とそっくりだった。然し広州市西方にあった大瀝人民公社で...

 60年代中国に駐在事務所を置ける商社は友好商社と呼ばれた。中国を代表するのは台湾にある政府ではなく、北京にある政府であると認めた商社を意味した。日常生活や仕事面で国賓待遇を受けたが、一つだけ不便なことがあった。それは外交関係がない日本の商社は現地人を社員とし...

   1965年9月から北京駐在し、12月~翌年1月上海出張、更に4-5月の広州交易会(正式には中国輸出交易会)参加の為、広州出張、その帰途5月17-20日は武漢に立ち寄り、輸出した設備の納入検収立合い等したが、多くの中国人は貧しいながらも穏やかで、劉少奇や鄧小平の進める経済...

 5月22日のブログで、初訪中時代(1965年)の様子を若干記したが、もう少し追記しましょう。 当時中国に長期滞在中の日本人は、単なる外賓ではなく友好人士と見做され厚遇を受けたが、1972年9月の国交正常化以降はビジネスライクな付き合いとなり、情熱的な「おもてなし」は影...

 5月31日から一週間程中国南方に旅行しましたので、印象点を報告しましょう。50年余の中国での体験談や見聞録等の続きは、次回報告致します。  1、8:30羽田発、北京経由で深圳に行きました。深圳空港でスーツケースを受け取り、ロビーに出ると驚くべき光景あり。剣付ライ...

 今までいろんな角度から中国の状況や対応法に就いてレポートして来たが、時間系列的に現地で見た中国人の表情の変化や、訪問参観した500以上の企業、研究所等の印象、更には自ら体験したことの中から印象的な事柄を、今後何回かに分けて紹介しましょう。 1、 初訪中:1964年...

どんな国や民族も、更には一個人に至るまで自尊心と云うものがある。基本的人権とか人間としての尊厳というのも類似のものである。有史以来数限りない程の戦乱に遭遇し、分裂と統一を繰り返して来た中国大陸では圧倒的に強い相手には従うが、弱ければ従わせようとする傾向が既...

  中国の経済力が強くなった一方モラル面の低下が再三指摘されるようになっています。 「衣食足りて礼節を知る」とはなっていないとも言えるが、日本も1960年代からの高度成長時代に一般大衆も大挙して海外旅行するようになり、ホテル内をステテコ姿で歩き回るなど、マナー...

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