2021-7-22中国進出―中国を知る(208)長い目で見よう(1)
前回、「絶対的権力は絶対に腐敗する」との歴史的教訓を結びとしたが、この教訓は東西南北、何処の国や組織であうと通用する一種の人類史に於ける「定理」の様なものである。日産自動車を再建したカルロスゴーンの如き優れた経営者でも、例外ではなかった。国家権力に止まらず、会社や諸団体にも当てはまり、チェック体制、自由な批判体制が必要な所以であり、日本や欧米の如き自由民主主義国家の政治面では、政権与党や国に対して自由に批判できる政党の設立が保障されており、マスメディアも自己責任に於いて、自由な活動が保障されており、第4の権力とも言い得る所以であろう。とかく我々は、目の前で起きている事柄や、自分の生活に直接影響しそうな身近な問題に強い関心を持つものであるが、時には長期的観点から物事を観察することも必要ではなかろうか!
全ての動植物など生き物は、環境に強い影響を受けるものであるが、人類も例外ではない。以前にも触れたことがあるが、日本の如く島国の場合と中国のように周辺に陸続きで多くの国々や民族が居住している場合では、民族性や国民性に大きな差異が生じるものである。
1, 日本の情況は世界的に見て例外的とも言えるほど、稀な存在であろう!1,300年も前に、国名が日本と決まり今に至るも改変されず、国のシンボルも「日の丸」であり、政治権力は何度か交代したが、どの時代でも天皇を最高権威とて来た。織田信長の如き新しいもの好みで、「天下布武」を唱えても安土城には天皇行幸の際にと仮御所を準備するほどであった。この様な事例は世界中探してもないであろう。簡単に言えば、日本は有史以来国家分裂の経験をしなかった国であり、「蒙古襲来」と言う他国からの攻撃を受けても支配されるには至らず、それが国民意識に影響をしており,対外的な国防意識の乏しさに繋がっていると言えよう。
2, 一方中国と言えば、分裂と統一、他国からの支配と周辺地域を支配と、あらゆる経験をして来たと言えよう。手元に「中国歴史地図」と言うページ数、100余の国土変遷の地図帳があるが、中国社会科学院がまとめ、中国地図出版社が出版し、学校教育にも供すとしており、何度も閲覧しているが比較的公正な内容と思えるので、概略を紹介したいと思う。尚付属的に朝鮮半島や日本等周辺地域についても、時代ごとに列記しているので、それら周辺地域をどう認識していたのかも、併せて紹介致しましょう。
原始時代はxxx文化やxxxx遺跡として記載し、BC21-16世紀を夏時代が黄河中流―下流にあったとしている。王朝として夏があったかどうかは未だ確定していないが、多くの遺跡発掘により文化的な先端地域があったことは事実であろう。
① BC1100-BC771年を西周期時期として、現在の西安―洛陽付近を主要地域として、長江(揚子江)中・下流も加えて多くの遺跡を紹介。更にBC770- BC476 時期を春秋時期として、遺跡群を若干増やして紹介。BC475- BC221を戦国時期として更に遺跡群を増やして、紹介。但しこの時期までは国境線の概念がなかったとして記さず。
② BC221-BC206 秦王朝時期として、支配地域を国境線で以って記している。但し現在の国土面積、960万㎢のほぼ1/3の330
万㎢である。北は遼寧省の南半分、西は寧夏回族自治区や四川省の東半分となっている。朝鮮人の支配地域については鴨緑江の北側に「高句麗」の文字があり、その萌芽があったと記している。
③ BC206-AD8年、西漢時期の最大支配地域は、東西南北すべて現在の版図より大きく、北は外モンゴルやロシアのシベリア極東部も含んでおり、ミャンマーやベトナムの北部も含んでいる。朝鮮半島は現在の北朝鮮は楽浪郡等漢の版図に入れており、その南側には西より馬韓、弁韓、辰韓としている。日本列島に就いては九州に倭国があったとしている。AD25-220は東漢時期であるが、最大版図は前漢時代とほぼ同じである。
④ AD220-280は魏、呉、蜀の三国時代だが、全体の「中国」版図は漢時代同様だが、三国の直接支配地域は秦同様、現在の1/3程度である。他はモンゴル等「少数民族」支配地区としており、朝鮮半島に就いては概略変わらず、何故か日本列島に就いては、明記せず、支配権力不在としている。
⑤ AD265-316は西晋時代としており、三国は晋となった他は、ほぼ変わらず、日本列島に就いては九州地区を「倭」としているが卑弥呼の邪馬台国を九州にあったとしているのかも!?AD316-420東晋十六か国時代だが、東南部が東晋、その北側が前秦、その他最大16か国に分裂、朝鮮半島は北半分が高句麗、南側には西より百済,任那、新羅と記している。日本列島に就いては、九州と近畿地方の中間である中国地方に「倭」と記しているが、意味深長である。
⑥ 次の統一王朝、隋までは、AD420-479の南宋、386-534の魏、534-550の東魏、535-557の西魏、386-534の北魏、479-502の斉、502-557の梁、550-577の北斉、557-589の陳、557-587の北周と乱立し、587-618の隋も
短命であり、又直接支配した地域も始皇帝の秦同様,現在の華北、華中、華南地区と大差なく、現在の版図の1/3程度としており、その周辺は間接統治地区である蛮夷の支配地区としている。朝鮮半島は高句麗の支配地域が現在の黒竜江省、ハルピンの西方の松花江に突き当たる所に迄達していたと記している(唐朝成立迄)。又半島南部は西から百済、任那、新羅の支配地区とし、日本に対しては相変わらず中国地方が中心的地区としているが、隋朝期には日本列島全体を支配していると記しているが、国名は相変わらず倭国としている。
⑦ AD618-907の唐朝は三期に分けて記しているが、初期の50年間即ち669までは、西はカスピ海やイラン北部迄支配し。北はロシアにあるバイカル湖の北側にまで及んでいたとし、南はネパールからベトナム北部に及んでいたが、現在の東北地方にある吉林省は非支配地区としている。朝鮮半島に就いては北半分は安東都護府等の管轄地区とし、南半分の西側は熊津都督府
の管轄が660-665の間あったとし、東側は新羅としている。日本に就いては、本州の真ん中に「日本」と明記し、国号が日本になったことと、日本の大部分を支配していると認識していることを示している。但し、北海道に就いては、「毛人」と記し除外している。758までを二期目の唐としているが、西側と南側は現在より少し膨らんでいる程度だが、北側は外モンゴルも含み更に北方のバイカル湖の北側にまで及び、東側はロシアの極東地区をそっくり版図内とし、朝鮮半島の大部分は新羅の支配地区としている。日本に就いては平城京の存在を明記した他は変更なしとしている。AD907までの唐時代後期では南方の現在の雲南省に南詔と言う王国があったとし、東北部には渤海国があったと記した以外は変化なし。日本に対しては平安京に代わったことを記しているが、北海道には相変わらず「毛人」と記している。
現代に至るまでにはまだまだ幾多の分裂、統一、王朝交代と続くが、これまでの紹介だけでも、隣国ではあるが、中国の歴史的歩みは、日本とは比較にならない程の相違点があることを強く感じていただけたのではないだろうか?世界的に見ても中国の最近の言動が特異的なことの遠因が、その歴史的要因でもあることが判然としたのではなかろうか?以上の続きは次回と致しましょう。
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