☆ 845-8-27文登県到着し、新羅所で友人でもある所長の張詠と再会し、彼の配慮で法花院の庄院に寄宿、下述する如く予想外の事情が重なり結局一年半滞在することになった。
 9月22日に楚州の劉慎言に寄託した荷物の取り寄せを請うと、大宰府にも住んだことのある李信恵から委細承知の返あった。然し翌846-1-9勅命により荷物の移動不可との連あり。何とか荷物を取得すべく2月5日従者の丁雄万を派遣。3月9日には円仁を迎える日本僧が楚州に居るとの情報あり。4月15日には仏教弾圧のひどかった唐の武帝が3月23日には崩御していたとの情報あり、更に5月には新帝の宣宗が大赦、仏教復興との詔勅あり。6月29日丁雄万戻り、劉慎言の書を受領、曼荼羅(マンダラ)両部は勅命により既に焼却せしも、その他は何とか保管中との返が書中にあった。10月2日性海上人が揚州より来訪、初対面だったが、託されてきた太政官、延暦寺の牒(回覧用公文書)、大宰府の小野少弐の書、下賜された黄金等を受領した。尚、文書等は先に長安に送られ既に宣帝がご覧になったと聞かされた。
☆ 847年2月張詠が円仁の帰国用に建造始めた船が完成したが、彼は天子の使節の送迎をさぼり、遠国人への対応を優先させているとの讒言に遭って、張詠建造の船での渡船は不許可となった。止む無く明州(現在の寧波)に行き日本船で帰国しようと、3月2日張詠に別れを告げて新羅人から船を買い、先ずは楚州に向かおうと5月5日に船上の人となった。風向きの変化が度重なり食料も尽きて5月24日には疲労困憊と記す。6月5日やっと楚州に到着したが、明州の日本人は既に出航した後だと知らされた。
☆ 6月9日「新羅人が5月11日に蘇州松江口(現上海)を船出したが、牢山(鉱泉水で有名な山東省青島の東側労山付近)に暫く停留し、赤山で日本僧を乗船させる予定なので、追いかければ間に合うかも!?」との情報を得、更に翌10日には労山行きの船便ありとの情報を得て、同18日楚州新羅坊、王可昌の船で出立。労山手前の寄港地で情報を探ると、乳山(労山の120㎞東方)で待つとの置手紙発見。再度船主王可昌の船を雇い、27日出航する。60㎞程度進み田横島(現在も同名)に着いたが、追い風がなくなり長々と待機し、やっと7月19日出航した。翌20日には乳山郊外の長淮浦で遂に本船を発見し荷物や人員を乗せた。21日には出航後最初の停泊地で食料等調達したが、新羅使(張詠所長)が船上に挨拶に来訪され、8月9日には進物を差出された。8月15日剃髪し、黒衣に着替え、24日には神を祀った。
☆ 9月2日山東半島最後の港町、赤山浦を離れ日本向け渡海となった。翌3日には新羅(半島の大部分は新羅の支配下にあったが、平壌を含む北方は高句麗等の後裔とも言える渤海国だった。新羅の国勢衰え始め日本や唐に朝貢していた時代でもあるが、日本は300年余続く平安時代の初期から中期に差し掛かる意気盛んな時代でもあった)の西側が望見されたと記す。9月4日には朝鮮半島西南端の西側に散在する黒山諸島(百済第三王子、演が逃れて隠棲した島と記す)の間を通過し、風次第の船旅だったが、9月9日朝には半島南端と済州島の中間にある巨文島に到着し休憩、午後には出航し大海を東南方向に進む。翌10日には対馬を望見しつつ進み、夜分に至り、肥前国松浦の北側の鹿島(現在の名称不明だが松浦市近くの島であるのは確か)に到着と記す。翌11日には筑前国丹判官の家人、大和武蔵が島長(しまおさ)と共に来訪、祖国の事情を知らされたと記す。17日博多湾内にある能古島に停泊、18日には大宰府の鴻臚館(こうろかん、本来は外国の賓客用宿泊施設)前まで到着、翌日より当館に一時的に住むことになったと記録。
 円仁の帰国後の処遇や働きに就いては、次回当シリーズ最終回として紹介しましょう。


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