2019-8-26中国進出―中国を知る(180)円仁の入唐見聞録(6)
今まで主としてライシャワー博士(日本生まれの元駐日大使だが、若い時代に慈覚大師円仁研究で博士号取得した円仁研究の第一人者なることは、前に紹介済みだが)の「円仁唐代中国への旅」を基礎に紹介していたが、彼は分野別に整理しているので、時系列にまとめて紹介したい、私の意図とは異なり不便だった。円仁は平安時代前期、唐時代では後期の中国大陸を足かけ10年も旅することになったが、現代の中国を都合25-6年間旅し、生活した私にとっては、何とか彼の生の声に接したく、関連図書を探すべく図書館に行った。行きつけの図書館にはなかったが、取り寄せてくれるとのことで、依頼した。平凡社発行の東洋文庫、「入唐求法巡礼行記」訳注は足立喜六、補注は塩入良道であるが、時系列に円仁の原文紹介を主として豊富な訳注や補注があり、便利だった。
読後感として、円仁の原文は漢文調の日本語であるが、不思議なことに平安時代末期に近い時期に書かれた、源氏物語や枕草子の原文より馴染み易いことだった。更に円仁の旅は正に艱難辛苦、波乱万丈であり、よくも生きて帰れたなとの強い印象が残った。又彼は学究肌の新聞記者の如しと以前書いたが、それ以上にどんな場合も冷静で、深く広い愛情を持ち続けたなとの実感が残った。弟子の一人円載が天皇(と言うより当時の日本政府)より託された大金を使い込んでしまった時でさえ、彼はとがめだてをせず、本人の自覚を待ったりもした。この項の前書きが長くなってしまったが、早速五台山を離れた直後の思わぬ出来事を紹介しましょう。
840年7月早々五台山を出立し、建安寺、七厳寺、胡村普通院等々に宿泊し8月22日には長安の東側中央の春明門に到着した。その間無料の宿泊施設普通院の利用も多かったが、中国人僧令雅の同行もあり比較的順調だった。勿論快く思わない院主(宿主)もあった。一日平均20㎞程度徒歩で歩んだ勘定になる。太原から南南西に歩いた訳だが、山西省西南部の吉県はJICAの援助プロジェクト(黄土高原緑化治山治水)で私も毎月北京から出張し車で通った道筋で、両側は山であるので、今になって思えば円仁等が徒歩で歩いたであろう道を、250㎞前後私も10回以上も通ったことになり感慨深い。
円仁が驚いた悲惨な体験と云うのは実にこの間であった。8月10日多分黄土高原の吉県手前の平坦部の農村地帯であろうと思われるが、イナゴ(蝗)の大軍が道路に満ち溢れ、家の中にまで所かまわず侵入し、稲穂も稗粟も食い尽くしており、農民百姓の嘆きは計り知れないと記している。時期的にも現代の9月に相当し、米等の収穫間際である。現代の若い世代の方々は知らないと思われるが、終戦直後日本では農薬などなく、イナゴの大軍に襲われ、小中学校は臨時休校(早い年は夏休み中)となり家族総出で、イナゴ取りをしたものである。縦横30㎝程度の木綿袋の一方に直径5-6㎝の真竹の筒を取り付け、イナゴを手掴みし筒より袋に入れて、満杯になれば竹筒を外して紐で結わえ、新しい布袋に取り換えて作業をした。味噌や醤油を仕込む時に使用する大鍋でお湯を沸かして、イナゴを茹でて、ムシロに広げて乾燥させ保存して鶏や豚の餌にした他、一部分は醤油等で味付けし佃煮として人間も食べたものである。又中国のイナゴの大軍の様子は小説家パールバックの「大地」の中にも描写されており、読まれた方もおられるのではなかろうか?私の少年時代に体験した日本の農村部の状況からは想像を絶するものである。
この続きは近日中に紹介致します。
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