慈覚大師円仁は空海や最澄同様遣唐使に随行する方法で唐に渡った。西暦838年6月13日に今の福岡県博多湾入り口にある志賀島出航したが、航行は難儀を極め揚子江(長江)入り口の北岸北方50㎞にある掘港鎮(現在の江蘇省如東市)に漂着した。

847年9月17日に博多に到着する迄9年3ヶ月も要したが、これは彼が目論んだものではなく、船待ち、乗船の難破、中国国内旅行の許可待ち等思わぬ出来事が重なり、こんなに長期間の旅行となった。結果として、彼の生真面目さと日記の記録により、仏典の集録伝来にとどまらず、マルコポーロの「東方見聞録」以上の歴史的な旅行記としての功績を残したと言えよう。マルコポーロはアジア諸国を放浪し、中国だけでも17年間滞在しフビライにも面会したと言われるが、彼の記録には誇張があったり単なるうわさ話だったりした内容も多い。例えば日本の家屋の屋根は黄金で出来ているとの記述もあった。彼の中国滞在期間にフビライは日本への遠征軍を送り文永弘安の役(1274年及び1281年)を起こしているので、日本に関する情報やうわさ話も多かったと推察される。又この頃既に岩手県平泉にある中尊寺の金堂は創られれて百年位経っているので、当然日本に関する情報として伝わっていたものと思われる。

 話を円仁に戻すと、遣唐使を含めて中国大陸との往来には朝鮮半島南岸及び西岸を経由した方がより安全なことは自明であったが、この頃は日本と半島全体を支配していた新羅との関係は良くなかった。白村江の戦いでは百済を救援しようとした日本と戦った関係もあり、その後高句麗を滅ぼして半島統一国家新羅としたが、高句麗から北方に逃げた朝鮮人がツングース族と共に建国した渤海国と日本は関係良好で往来も活発だったことも関係あったかも知れない。更に言えば反乱、分裂がしばしばある朝鮮半島の人々から見れば、何があろうと天皇を中心として統一を保持している日本は、気味悪い存在であったかも知れない。現代でも日本の天皇を日本国王と呼ぶ世界で唯一の国が韓国であることにも表れている。

 円仁は838年6月に日本を出航したが、実はこれは三回目の挑戦であった。一回目は836年5月12日に難波を出航し、同年8月17日に博多を離れたが、4隻からなる船団の中、第1船と第4船が台風に遭遇し、九州に吹き戻された。その後第2船も同様だった。第3船も難破し16人が筏(いかだ)で対馬に漂着、後日対馬に漂着した本船での生存者は3人のみだった。二回目の挑戦は翌837年早目に難波を出航したが、博多を離れた船団の中第一、第四船は壱岐に流され、第二船は五島列島に漂着との悲報が8月26日京都に届き、又もや遣唐使船団の出航は失敗に終わった。

 第三回目円仁は第1船に乗船し、838年6月13日より記録し始めたが、風は順風で六日目には海の水が黄色の海岸近くに漂着したが、船は傾き破損し波をかぶってしまった。遣唐大使と関係者は小舟で上陸し、残留した円仁等30余人は波をかぶり続ける船上で翻弄され、まる二日間生きた心地がしなかったが、7月2日になって中国側から救命ボートが来て助けられた。第4船も遠くない海岸に漂着したが、揚州滞在の遣唐大使に合流したのは2か月後だった。