年号の「令和」の根拠となった万葉集が大変注目され、関連する書物が広く読まれ、新たな出版も多くなりそうである。前回も記した如く、庶民から天皇までの広範な人々の詩歌が、遥かな1,300年も昔に4,500首も集録されたことは、何度回顧しても素晴らしいと思う。その殆どは当時の人々の素朴な心情を歌っており、やや技巧的になった古今和歌集よりも現代人に対しても訴える力があると思われる。同時に当時の日本人の文化的レベルや、思いやり・愛情ある世情を反映していると思う。

 一方万葉集を編纂した大伴家持の父親である大伴旅人が太宰府に赴任したのは、730年であり(翌年67歳で没)、前回記した如く百済救援に向かった日本軍船が白村江で敗北し(663年)、九州を中心に西日本防衛に注力、大宰府はその中心として重視されていた時代でもある(菅原道真の大宰府赴任が左遷と見られた170年後とは全く異なる)。この頃唐は玄宗皇帝の開元の治と言われ隆盛を極めた時代でもあったが、後に楊貴妃を寵愛、その一族を優遇したこともあり、755年には安禄山の乱が発生(楊貴妃は756年絞殺され、安禄山は757年に息子に誅されたが)唐の勢力は下り坂になった。当時日本はツングース族が滅亡した高句麗の一部等を含めて、中国東北地方に建国した渤海国(713~926)と頻繁に往来し(727年以来)、情報交換して唐の内情を側面からも把握していたようだったが、754年には鑑真和尚が来朝し、759年には今に残る唐招提寺を建立、日本での仏教信仰は重視されていた。聖武天皇は743年に大仏建立の詔を発し、庶民の協力も求め、僧行基も全国行脚したこともあり、852年には開眼供養に至った。然し、仏教を鎮護国家の精神的支柱にしたこともあり、僧侶等が深く政治に介入する様になり、それを嫌った桓武天皇が京都に遷都する決断に至り仏教の在り方を見直すことにもつながった。
 慈覚大師円仁の入唐巡礼に先立ち、弘法大師空海と伝教大師最澄は遣唐使に随行し、平安時代初期の804年3月に唐に旅立ったが、空海は2年後の806年8月に帰国し真言宗を伝え、後に高野山金剛峰寺を開き、最澄は翌年の805年7月には帰国し、天台宗を伝え比叡山延暦寺を開いた。慈覚大師円仁は最澄(822没)や空海(835没)より一世代後の僧侶だが、838年7月に遣唐使に随行し入唐した。迫害や追放騒ぎ等幾多の苦難に遭遇しながらも9年余後の847年10月に帰国となった。円仁は今ではあまり著名でないが、当時は空海や最澄よりも朝廷から高く評価されていた。と言うのは空海が弘法大師の諡号(しごう、おくり名のこと)を下賜されたのは没後86年経った921年であり、伝教大師は没後44年経った866年であるが、慈覚大師は没後僅か2年の866年であった。
 慈覚大師円仁は847年10月に帰国すると、僅か2か月後の12月には「入唐求法巡礼記」を公表している。ライシャワー博士(日本生まれ高卒後アメリカに帰国、世界の五つの主要大学で学び、ハーバード大学より慈覚大師円仁の研究で博士号を取得。ケネディ大統領時代に駐日大使に任ぜられた)著作の「円仁唐代中国への旅、25万余語の大冊」を読んだが、円仁は学究肌のジャーナリストの様だったとの印象が残った。従い、苦難の長旅を終えて帰国、彼の報告を聞いた人達は天皇のみならず、多くの人々に感銘を与えたものと思われる。後年宗教人として大成した空海や最澄との当時の評価の違いがそこにあったと思われる。
 次回円仁の唐での旅路を辿りながら、彼の見聞や観点の中から印象的な部分を、抜粋的に紹介しましょう。

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