2019-4-16 中国進出―中国を知る(174)平成から令和へ
5月1日より日本の年号は平成より令和に代わることになった。今上天皇の生前退位により改元される為、お祝いムードや便乗的商業活動が暫くは続きそうである。
後世の為、関連事項を若干記して置きたい。テレビや新聞全て令和が万葉集の梅を愛でる和歌、32首の序文「初春の令月、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす(新春のこの好き月、空気は優しく風は和やか、梅は鏡の前の美女のおしろいの如く咲き、蘭は身に着けたお香の如くかおりを漂わせている)」からの引用と紹介。
1300年近い昔、奈良時代中期に天皇や公家のみならず、防人や農民に至るまで多様な人々の、其れも伝説時代にまでさかのぼって、4,500首も集録されている万葉集は、正に世界に誇り得る日本の文化資産であり、多くの日本人に見直され、海外にまで知れ渡る契機になるであろう。万葉集は日本国創成期の人々の生活や恋愛を含む喜怒哀楽を表現している歌を比較的公平に集録しており、当時の人々の息吹を感ずることが出来る。知識人であり、且つ下級官僚であった山上憶良の税金の取り立てを嘆いた「貧窮問答歌」や子供の愛しさを「白金も黄金も玉も、、、」と、子供は無上に尊いと歌っていることなど、どんなに時代が変わっても人情は変わらぬものと、時々思い出されるほどである。
令和の文字解釈については既に幾つか出ているが、元々大伴旅人が太宰府長官時代の梅見の宴会を催した時に作ったと言われているが、歴史年表を見ると彼は太宰府赴任後1-2年後と思われる西暦731年に67歳で亡くなっているので、亡くなる直前だったと思われる。
年号と言えども時間が経過すると本来の意味が薄れていき、一般的用語としての意味で理解するようになるが、「和」に就いては異論が出ないと思われるが、「令」に就いては、各社新聞を見ると、一部偏向している様に思われ、見落としがある。と言うのは:
「令」には良いとかめでたいとの意味と命令や令状の令との二つを紹介されているが、何故かよく使用される第三の意味、即ち令嬢、令息、令夫人と言う他人の家族への尊敬語として使用されることがあり、日本人ならほとんど知っていることを紹介していない。漢和辞典を見ると、第三の意味に使用される事例は更に沢山あるので、是非この機会にご参照願いたい。又歴史的にさかのぼれば、明治時代前半県知事は県令との呼称だったこと、更に古代では日本最古の法制として、大宝元年(701年)に「大宝律令」が制定され律令国家になったことは誰でも学生時代に学んだところである。現代風に言えば「律」は刑法に相当し、「令」は行政法に相当するとも言えよう。年号でも法制でも最初は中国大陸に学んだが、日本の実情を考慮し時代と共に改革し独自性を持つようになったところは朝鮮半島(中国大陸に準拠し続けた)とは大いに異なるところである。
大宰府は、百済の要請を受けて日本は400艘の軍船を派遣したが、663年白村江で唐と新羅の連合軍に大敗してから数十年しか経っていない大伴旅人時代には大いに重視されたので、旅人にとっては意気揚々と過ごしたであろう。然し、菅原道真が「東風(こち)吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」と詠んだ平安中期には、大宰府長官に任ぜられるのは左遷であった。奇しくも道真の上申により遣唐使の派遣が中止されたのは894年だった。円仁和尚の入唐求法巡礼記(838-847年)によれば、既にこの頃仏教はすたれ初め、文化的にも日本は既に追いついていることを感じさせる記述がある。次回この辺の状況を回顧してみたい。
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