2016-10-12 中国進出-中国を知る:(123)この50年余現地で見た中国(14)
この2-30年、中国は驚くべき変化発展を遂げたが、一本調子ではなかた。改革開放の大号令が発せられて10年余経た1992年に私は深圳と遼寧省、上海に出張したが地域差が大きいと感じた。深圳は確かに中国人の目には大発展と見られていたようだが、大きな街道沿いや誘致工場周辺のみとの印象、遼寧省は瀋陽市鉄西地区のみまあまあの印象、大連市開発区も道路は未整備で、進出企業もパラパラとの印象、上海も旧態然としていたが、蘇州に行く途中にある昆山の開発区がシンガポールの肝いりで発展しているなとの印象だった。中国全体を俯瞰すれば90年代半ば以降10年余大発展、その後は諸矛盾が発生徐々に大きくなり現在に至っていると言えよう。
一方1989年には天安門事件が発生し、世界を驚かせると共に西側諸国は中国政府に対して 経済制裁をかけたが、1985年から1991年末まで北京に滞在(途中帰国はあったが)して正に目撃したといえるので、実情を紹介しましょう。中国のメディアの報道は偏っているが、西側諸国の報道も偏重していると強く感じた。
1、 当時中国社会には自由な空気が充満しており、人気のあった胡耀邦総書記が4月15日に亡くなると自然発生的に追悼の自転車集団が現れた。私が見かけたのは20人足らずだったが、徐々に拡大しやがて天安門前広場に集合し、5月中旬ごろには30万人程に(国慶節や紅衛兵の大集会の規模と比較すると、よく言われる10万人規模より3倍は集まった)なり、警察学校の学生や公務員迄参加、知人の大学教授や私の勤務していた会社の現地スタッフまで、成功すると言い出す始末。農民や広範な工場労働者が参加していないことから、成功の見込みはないから参加して当局からマークされないようにすべきと説得したほどである。
2、 学生たちの行動で感心したのは、交通整理を放棄してしまった交通警官の代わりに交差点では学生達が手をつなぎ、離して道を開閉して交通整理を効果的に実行していたことです。政府や党の首脳の生活及び勤務地でもある中南海地区の長安街通りに面した南側の正門である新華門でも衛兵と一定の距離を保ちながら、混乱を避けていたのが印象深かった。バカバカしいと感じたのは自由の女神の大きなハリボテを広場に立てたことだった。
3、 6月3日夜から広場では大勢の学生達が殺害されたと、西側諸国では報道されたが疑問である。沢山のテレビ局はカメラを備えて一つの状況を複数の国々のカメラが撮影し、繰り返し報道して過激な印象を増幅していたのは間違いない。当時私は天安門から西方3㎞にある民族飯店の10階の長安街通りに面した部屋に住んでいたが、日中は自由な行動が可能だったので、他のホテルに住んでいた日本人同士で翌朝見て回り情報を交換した。殺害された学生達の多くは広場から数百メートル離れた場所が殆どだった、中には埠成門や王府井西北の華僑ホテル近くもあった。進行形で私がホテルの部屋から目撃したのは逆に兵士が殺害される状況だった。西方から天安門前広場に向かった軍隊は500台の車両の他歩兵も多かったが、ある 兵士は学生達によりこん棒でなぐり殺され、他の兵士たちが救助し隣接している民族文化宮の方に運んで行った。翌朝200m程西側にある復興門手前の南側では兵士の一人が殺害され街路樹に吊るされたと住民に聞かされた。尚興奮した兵士達は闇雲に銃を打ちまくり、民族 飯店のみで弾痕が十個以上見つかった。ホテルの従業員は3日夜危ないから奥の部屋に 移動すべしと言っていたが、10階と高い上消灯しているから問題ないと言い移動しなかった。現地で収集した情報から判断すると、死者は数百人規模で千人を超えることはあり得ないと思われた。日本は1992年には対中制裁をいち早く解除し、天皇初訪中もあり日中関係は皮肉にも此の頃が最良だったと思われる。次回もう少し補足しましょう。
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