2016-9-28 中国進出-中国を知る:(122)この50年余現地で見た中国(13)
1980年4月より一年間、私は上海に代表事務所を開設し駐在したが、少し当時の上海体験や見聞を紹介しましょう。
1、既に身元保証人は以前一律中国国際貿易促進委員会(対外貿易省の外郭機関)だったのが、取引関係の多い貿易会社となっていた。上海に到着すると私の身元引受会社である上海外貿公司の担当者が出迎えてくれたが、宿舎兼事務所として手配されていたのが、元大豪邸をホテルに転用した東湖賓館(花園飯店の3ブロック西方)だった。客室10室だが大きな庭園があり、邸宅としては兎も角事務所としては不便この上ないところだったので、早急に最も便利なところへの引越しを要請した。結果として中山東一路の上海外貿公司より100m余り南寄りの和平飯店北楼であった。東京で言えば麻布から有楽町に引越したようなものだった。当時上海ではまだ現地人を雇用出来なかったので、ホテルの従業員を実質的にアシスタントとして代用してしまった。その代わり地方出張する毎に若干の土産を買ってきた。ホテルでの食事代も当時は安かったので、殆ど8階の黄浦江寄りの食堂で船の汽笛を聞きながら食事をした。
2、当時電話の普及が遅れており、地方のユーザーとの連絡は殆ど電報だったが、漢字を4桁の数字に置き換えていた。その便覧としてのコードブック(電碼本)を使わねばならず不便だったが、受信の場合ホテルの西隣にある電報局の女性スタッフに頼んだら全て漢字に置きえてくれた。ある時目の前でその作業をしてくれたが、9000もある四桁の数字を何も見ずに漢字に置き換えてくれ職業柄とは言えその記憶力とスピードに感嘆したものだった。
3、当時の上海は旧態然としており、最高のビルは人民公園(解放前は競馬場)北口前にある23階建ての国際飯店であった。次が17階建ての上海大厦(元は米国のブロードウェイマンション)で、和平飯店は宴会場に利用されていた一部分(昔はオーナーの住居だった由)のみが、14階建だった。当時上海では新築のビルは殆どなく、一般家庭の住居面積も平均6㎡/人と中国でも最低レベルと言われ、内々に訪問した友人宅ではベッドの一つは何と壁掛け式だった。
4、上海は伝統的に市民意識が強く、ユーザーの一つであった上海蓄電池廠は希硫酸を垂れ流ししているとして、周辺の住民から垂れ流し停止を求める激しい運動が続き、結局浦東地区に移転を余儀なくされた。新工場も訪問したが、敷地の一角をボーリングしたら温泉が出たとして、思わぬ余禄に喜んでいた。
5、一方コスト意識も強い上海人らしい事柄として、輸入した高額な分析設備の稼働率を上げる為、購入できない他の類似研究所から依頼分析を受けたり、設備を時間貸ししているところもあった。北京や他の地域のユーザーが稼働率20%未満でも何等問題視されていなかった当時としては、やはり上海は違うなと思わされた。
6、余談であるが文革時代の後半、権勢を誇った四人組の裁判が(80-11-20~81-1-25)、公開されて、1980年秋に導入されたばかりのホテルのテレビで見ることが出来た。江青がわめいて護送者を振り切る様子が昨日のことの如く記憶に残っています。
7、元々フランス租界の中心的存在だった錦江クラブ(現花園飯店)では、オールド上海ジャズバンドが演奏しており、時々当時珍しかった缶ビールを差し入れて演奏曲目をリクエストしたのも昨日の出来事である様な気がします。
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