現在アジア諸国の対日感情は、中韓を除き総じて良好だが、日中国交正常化した1972年頃はむしろ逆だった。リップサービスを含め「中日友好!中日友好!」と嫌になるくらい聞かされたが、1974年田中首相が東南アジア歴訪の際には反日デモに遭遇することとなった。中国が盛んに攻撃していた佐藤元首相が、沖縄を平和的に返還したことを評価されノーベル平和賞を受賞、米国フォード大統領が就任早々来日する等日本には追い風だったが、韓国では朴大統領狙撃事件が発生する等、当時の日本は相対的に中韓からは畏敬される存在だったとも言えよう。翌75年には蒋介石が死去、ベトナム戦争終結、昭和天皇皇后両陛下の訪米等もあり、中国は日本の影響力が強くなり覇権主義に変化するのを本気で恐れており、平和条約交渉では「覇権主義に反対し、お互い覇権主義を求めない」を再三再四強調していた。そのような流れの中で、中国では激動の1976年を迎えた。尚この年の1-6月私は東京勤務であった。
1、 新年早々周恩来首相が亡くなられ、東京南麻布の有栖川宮記念公園南方にある中国大使館別館に追悼施設が準備されたと聞き、同僚達と弔問に行った。驚いたのは、献花の数の多さであった。敷地内に納まらず有栖川宮記念公園まで届いてしまうのではないかと思われる程、 路上を北上していた。9月9日毛沢東が亡くなられたときは北京滞在であったが、当時の本社情報では献花数は周恩来の時よりかなり少なかったとのことであった。これは中国国内で清貧且良き調整者として親しまれていた周恩来だが、日本での人気の高さも物語っていた。
2、尚、78年末に改革開放の大号令をかけ中国の経済的豊かさを実現したのは、他でもなく鄧小平であるとの点では異論はないと思われるが、尊敬の念では毛沢東や周恩来には及ばないと思われる。その証拠の一つはこの二人の偉人は、半ば神様扱いとなり、その写真がお守りの如く自動車のバックミラーにぶら下げられるようになった。
3、1976年7月28日未明唐山(天津の約100㎞東北方向、北京よりは160㎞東南東)で大地震が発生した。この時私は中国生まれの同僚と日本人の常宿である新僑飯店に宿泊していたが、強い地震の揺れを感じて目を覚まし、同ホテル内にあった事務所を点検したが、書架より若干書類が落ちた程度なので、また部屋に戻り寝てしまった。同僚は「地震だ、外に出ろ!」との中国人的習慣があった為、出口に近いロビーまで降りて行ったと言う。後刻フランス航空のスチュアーデスが全裸でシーツを抱えて降りてきていた等と話していた。北京でも2環路南側にあった古い民家群数百が倒壊し、死者300人以上との情報もあったが、唐山では中国の公式発表でも28万人の死者とのことであった。印象深いのは:①当日昼前には解放軍の真新しい8人用テントが、天安門東側の公園に沢山用意されホテルの客は全て避難させられた。日常の生活や仕事にも支障ないように関係者も全て移動していて、その迅速さや周到さに感嘆した。②四人組が健在な時代で諸外国からの援助は全て断わり、自力更生精神を遺憾なく発揮していた。③一般大衆への援助は見られず、北京の庶民は公園、歩道、路地等に、夜のみ布切れやビニール等で覆いを作り9月末頃まで夜間の就寝場所としていた。中国のマスコミは救援活動のすばらしさを盛んに報道していたが、被害状況は不明だった。9年前の1967年参観した唐山の陶器工場、沙石峪等は壊滅状態だったろうと日本人同士で憶測する他なかった。
4、華国鋒に向かって言ったとされる「君がやれば安心だ」との毛沢東の遺言に従い、彼が党主席に就任したが、翌10月には四人組を逮捕し文革活動を中止してしまった。

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