2016-8-13 中国進出-中国を知るS.(118)この50年余現地で見た中国(9)
前回1972年11月の北朝鮮への出張の件を記したが、ピョンヤンでの体験を若干紹介しましょう。空港ビルは北京同様貧弱だったが、街中への道中見たのは建設中の沢山の高層アパートで、当時中国より豊かだと言われていたことを実感した。街で見かける殆どの女性はスカート姿であり、男性はネクタイをしており、女性はズボン姿、男性は人民服(工人服)の中国より親近感があった。又拉致事件のことなど想像も出来ない時代で、ホテルの女性は廊下ですれ違うと、立ち止まり客の通行を優先させていた。一方日本との通信であるテレックスは、ホテルロビーの一角にあったテレプリンターから、みんなが見ている前で、段落毎の文頭を読みながらどこの会社宛か確かめて配布する仕組みになっており、国際電話もフロアーの角で掛ける仕組みで、スタッフが通話中も側で聞いていた。盗聴ではなく故障が多いので、実質的通話時間の確認の為と言う。ホテルの食事はコメのご飯は美味しかったが、焼肉は厨房で焼いて冷たくなったのを出されたのにはがっかりした。街中の移動や写真撮影の自由はなかったが、可能な限り口実を設けてタクシーで見物したが、商店等では中国より品数が少なく、貧しいとの印象だった。古都であるケソン(開城市)や南北38度線の窓口とも言うべき板門店の参観もあったが、特記するほどのことはなかった。話を中国に戻すが:
1、1972年9月に国交が正常化すると間もなく、国賓待遇はなくなったことは既に紹介したが、急増する訪日中国人ユーザーや貿易公司(会社)の方々への応対が頭痛の種だった。それまで地方に出張すれば、迎えの車が駅のホームまで来てくれ、飛行機ではタラップ下まで配車し出迎えてくれたこと、市長さん等が挨拶に来られたこと、更に歌舞音曲の鑑賞では貴賓室に通され、博物館見学では人払い等をされていたが、日本ではこんな応対は絶対に出来ないので、ユーザー等が設備やプラントの買い付けの下見に訪日することが決まった時には、日本では斯様な特別待遇は出来ないことを前もって説明する他なかった。
2、文化革命は、1966-76年と10年も続き、後半は「四人組」時代でもあったが、人々には疲れが見られ情勢の正常化を望む空気が濃厚になってきて仕事面でも好転の兆しが見えてきた。然し、日本を含む常駐している西側マスコミは事件探しに奔走している様に見えた。即ち何か事件があると繰り返し報道、我々商社マンの目には正しいとは思えなかった。又東アジア情勢も変化した。日本では72年に沖縄復帰、モンゴルと国交樹立、東パキスタンがバングラデシュとして独立、73年には東独や北ベトナムと国交樹立、74年には鉄鋼生産が日本の半分もない中国(今は日本の8倍)への鉄鋼プラント輸出協定締結、75年にはベトナム戦争終結、蒋介石の逝去、天皇皇后の訪米等々。日中関係を法的にも確定する為の条約交渉も始まっていたが、中国側はアメリカのみならず日本もアジアで覇権主義を確立しようとしているとの疑念を抱き、互いに覇権主義を求めないことを強く求めていた。中国の現状を見ると隔世の感がある。
3、では何故あれ程覇権主義に反対していた中国が、今は全く触れないようになったのだろうか?
類似状況として、以前は「打倒アメリカ帝国主義とか、打倒ソ連修正社会帝国主義」とか言っていたのが、何故今は言わなくなったのだろうか?中国は中華思想の国と言われることもあるが、1840-42年のアヘン戦争でイギリスに負け、香港島を割譲させられ、以後100年余日本を含む列強諸国に国中蹂躙、支配され中華思想どころではなかった。有史以来中国大陸を支配する原理は、むしろ事大主義と言った方が良い。弱ければ強い国々の言いなりになり、強ければ自己の主張や利益を全ての基準にしようとすることで、今はアメリカに対抗出来るところまで強くなったと自認する段階になったことであろう。後日、より具体的に解説しましょう。
お願い:私のブログに対し、ご意見やご異論、ご遠慮なくお寄せください。
「参考になるとか役に立つ」とのことでしたら、お知り合いにもお奨め下さい。
柳沢経歴:以前のURL表記にミスあり、下記にてよろしく。
https://www.consultant-blog.com/yanagizawa/
Mail add:knhr-yana@jcom.home.ne.jp