1966年4-5月の広州交易会参加中に、中国側の手配で人民公社見学の機会が2度あった。
農地は国有で人民公社が管理、農作業も食事も集団であった。子供達は粗末な衣服、全て裸足で、私の小学低学年時代(昭和20-22年)とそっくりだった。然し広州市西方にあった大瀝人民公社ではトラックは3台のみの所有なのに対し、広州市北方にあった東方人民公社には52台あると言われ、大きな格差に驚き今でも覚えている(人民公社の人口は大体5-6万人規模)。尚、屋根のみある大きな小屋の如き食堂で昼食をご馳走になったが、ホテルの食事より美味しかった。
1、 紅衛兵活動が盛んな1967年5月に天津で日本科学機器展覧会を開催、同僚二人と共に参加したが、展覧会以外にもいろんな活動があり、貴重な経験と思い出来るだけ参加した。その一つが唐山市北郊外にあった沙石峪と言う生産大隊(人民公社内の区画、日本の農村の大字相当)であった。山西省昔陽県にある有名な大寨大隊に次ぐ模範的農村と言われた。石ころだらけの極悪の自然条件を自力で改善し、豊かになったと言うことであった。石ころを拾い集め路肩用等に徹底的に利用し、桃、李(すもも)、リンゴ等も栽培している多角経営と判明したが、大寨同様大きな嘘があった。それは自力更生ではなく、解放軍が主として夜間労働で内密に支援したことが、文革終了後判明したことである。当時は「農業は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」と言われ、文革終了まで続いた。尚焼き物の町、唐山市の招待所に一泊し、市内も参観したが、乳白色の陶器、オモチャの如き可愛い唐山駅が印象深かったが、9年後の1967年7月28日の唐山大地震で壊滅的被害を受けた。
2、 天津にいた一か月余の中で一つだけ不愉快なことがあった。中国が水爆実験に成功したとの報道があり、左翼の連中は中国の“核”は正義のものでありお祝いしようと言うことで、街中に繰り出してデモ行進したが、中国側も喜んで日中連帯の全体行動にしてしまい、展覧会出品への政府の規制反対と一括で、参加を余儀なくされたことであった。
3、 北京に戻った後も商談相手となかなか会えず、仕事時間は1/3、学習会、参観活動が続いた。日本人の主要居住地である新僑飯店の各階を東西に分けて、毎週の如く毛沢東語録を読み討論会を続けた。この語録の内容は毛沢東思想の要約版であり、今でも中国の憲法では最も重視されるべき指導理念とされているが、回顧してみて今なお正しいと思われる点も少なくないと思われる。即ち「仕事とは困難との闘争である」とか、「人民は解放を求め、民族は独立を求める。これは時代の趨勢であり幾多の紆余曲折を経るが、必ず成功する。反動派の抑圧は必ず失敗する」と云うものである。人民の解放や民族の独立擁護勢力だった解放軍や共産党が何時の間にか、抑圧勢力になってしまったことは皮肉である。然し、当時ソ連東欧諸国の在日通商代表とも仕事の関係で付き合ったが(みんな日本語が素晴らしく上手だった)、彼らは平然と「我々も何時の間にか支配者側になった」と認めていたのが、印象深かった。
4、 余談:1965年9月私の初訪中時、北京には当時民間大使と言われた西園寺公一(明治時代の元老、西園寺公望の孫)が住んでおり、9月30日国慶節前夜祭としての国宴出席の直前に我々訪中団は周恩来総理と会談し、記念撮影をしたが、彼も参加した。同伴されていた彼の夫人,雪江さんは大変な美人であったが、元新橋芸妓だったとのことで、強い印象に残った。彼の要求で唯一の日本料理店、和風の畳入れ替え費用をカンパしたが、文革勃発により実現せず残念だった。尚ポルポト時代のカンボジアのシアヌーク殿下も新僑飯店近くの邸宅で亡命生活をしていた。北京西郊外にある友誼賓館にもインドネシアのスカルノ大統領がクーデターにより失脚した後、多数のインドネシア人が亡命生活をしていた。
 次回は「ソ連対中核攻撃か?」と言われた1969年の現地状況を紹介します。


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