2016-7-4 中国進出-中国を知るS.(112)この50年余現地で見た中国(3)
1965年9月から北京駐在し、12月~翌年1月上海出張、更に4-5月の広州交易会(正式には中国輸出交易会)参加の為、広州出張、その帰途5月17-20日は武漢に立ち寄り、輸出した設備の納入検収立合い等したが、多くの中国人は貧しいながらも穏やかで、劉少奇や鄧小平の進める経済調整政策が比較的順調に進み、人々は前途を楽観しているように見えた。1、 北京は周囲が城壁で囲まれ、古い町だったが物価は安く、街角で売られていたアイスキャンデーは3銭と5銭の二種類、景山公園の入場券も3銭、王府井の北角で糧票(以下※を付した文字は不詳ならネット検索乞う)なしで無理やり食べたラーメンは10銭だった。西単の餃子屋でこれも店主の好意で糧票なしで、二人で餃子、豚足を食べ茅苔酒を飲んだが、一元でお釣りが来た位であった。お札も5元札が最大であったが、日本円との兌換率は1元150円前後であった。66年3月に邢台大地震(※)が発生し一万人近い死者が出たが、当時現地では救援活動主体の報道で、爾後災害報道のスタイルになったと思われる。2、 66年5月武漢より北京に戻ると不可解な様相を感じるようになった。一緒に北京に駐在していた大先輩は昔延安で毛沢東や周恩来とも生活を共にしたと言われる人物で、中国側に人脈もあり中国語も流暢であった。一方私は中国語は話せず、実務担当者として先輩に通訳してもらうことも多々あったが、燕山夜話(※)という随筆集(’62年出版)が反党的だとして批判されたとのことであったが、右翼的だと見做されていた私にはあまり説明してくれなかった。当時北京駐在していた商社マンは、共産主義を信奉する人達を含め、左翼的な人達が多かった。彼等には大きな思想問題との共通認識があったと思われ、仕事そっちのけでこそこそした動きが多かった。これが文革(文化大革命)の始まりだったことを、やがて知ることになった。
3、 66年7月末に帰国し、翌67年5月に天津で開催の日本科学機器展覧会に出品、参加しその後北京駐在する為、再度訪中したが中国の様相は一変していた。街中大字報(筆で大書された壁新聞)だらけで、中国ではこれほど書家がいるのかと冗談を言い合った程である。商談の前には革命歌を歌ったり、毛沢東語録を日中双方で読んだりした。中国の担当者の中には、外国人である我々にまで語録を読ませるのに抵抗があるらしく、もじもじしている場合があったが、一生に一回の貴重な体験と思い、むしろ我々“右翼連中”が積極的であった。紅衛兵との座談会にも進んで参加して率直な意見を披露した。ある座談会(泣く子も黙る首都第四司令と言われる相手)で、「皆さんは国際的連帯を示すため、テレビを所有する等贅沢をしないで、カンパすべきだ」と言われたところ、展覧会に参加していたメーカー技術者は「いやだ!大体それでは不労所得を認めることになり、搾取ではないか!彼等は自分で真面目に働けばよい」と反論。相手は話題を変えてしまったこともある。尚展覧会開催の公園には屋外プールもあり、日中双方昼休みには一緒に泳いだりした。会議、集会等が多く中国全体の経済面では大停滞を余儀なくされたが、国中が殺し合いをしていたかの如く言う者が日中双方に居るが、嘘である。中国の年配者は殆ど被害者であったの如く言うが、当時若者の99%以上が紅衛兵だった時代で、それなら加害者でもあったのではないかと言うと、誰でも黙ってしまう。現地での見聞に基けば不法な過激な行動をしていた連中は数パーセントだったと断言できる。中国の歴史では数十パーセントの死者を出した戦乱や大飢饉が何度もあり、日本や欧米の常識では図り知れないことを我々は知る必要があろう。
4、 何人かの日本人駐在員がスパイ容疑で拘束されたが、殆ど左翼的な連中であり、私の如く右翼的と言われた人々は一人も拘束されなかった。何故か、続きは次回に!
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