今までいろんな角度から中国の状況や対応法に就いてレポートして来たが、時間系列的に現地で見た中国人の表情の変化や、訪問参観した500以上の企業、研究所等の印象、更には自ら体験したことの中から印象的な事柄を、今後何回かに分けて紹介しましょう。
1、 初訪中:1964年よりオーストラリアに駐在していた私は、翌年の7月末で帰国し、九月には中国に行けと、東京本社の指示を受けた。商工会友好訪中団に青年代表として参加し、1965-9-17出発し、香港、広州経由で3日後北京に到着した。私が代表団の一員に選ばれたのは、10-12月に開催の北京上海日本工業展覧会への大口出品者だった為である。
2、 ビザ取得の為香港には2泊したが、先輩諸侯から「君は物言いが率直過ぎるので、中国に入ったら口には気をつけよ、然しスリや泥棒は居ないから身辺への注意は不要だ。逆に香港では口は自由だが、身辺には十分気をつけよ」と言われ、そのように振舞った。
3、 独裁国家の中国ではさぞかし、緊張した生活が必要かと思いきや、深圳での入境ではスーツケース等自分で押しながら越えたが、深圳橋に直立して警護していた若い解放軍兵士には緊張感がなく、周辺をアヒルがガーガー鳴きながら走り回っているのを見て拍子抜けした。 広州の羊城賓館では丁度ベトナムの歌舞団の女子団員達がアオザイ姿で立ち話をしていたので、言葉が通じないながらも写真を撮らせて貰ったりした。
4、 北京空港ビルは搭乗カウンターが国際と国内夫々一ヶ所しかなかった。北京市内も自転車時代で、車には数百メートル走ってやっと対向車に遭遇する程度であった。展覧会の準備作業をするかたわら、人民大会堂での周恩来総理との会談に参加、9月30日夕方には毛沢東も出席の国慶節祝いの前夜祭としての宴会へ出席や各地参観などがあった。
5、 この時期の印象は、既に再三報告しているように貧しいながらも街で見かける人々も、参観した人民公社の農民たちの表情もほとんど全て穏やかで、妊婦や老人達を自主的に助ける姿を随所で見かけた。人民大会堂内部の椅子やソファーには茶褐色の木綿性のカバーが掛けられており如何にも質素との印象だった。又至るところに痰ツボが置かれて最初は異常な印象を持った。その後一年近い駐在生活を送ったが、上海、広州、武漢等でも犬や猫を見かけることもなく、スズメやハト等野鳥も滅多に見かけなかった。大躍進政策失敗で食糧難の時代にほとんど食べてしまったとのことだった。街中どこも清掃が行き届いていた。
6、 当時の中国人はマナーが良く、特に外国人に対しては一律「外賓」と呼び、熱いおもてなしを受けた。当時の北京の冬は寒く、北海公園ではスケートを楽しむ人達が多かったが、入場券購入で列を乱したのは、中国人ではなく我々日本の若者だった。然し、公園のトイレは男女共に扉や仕切りがなく、中国の女性は入り口の方に向かって用をするのを目にすることもあり、途惑いを感じた。これは何処でも同様だった。又買い物をすると、くしゃくしゃのお釣りを投げて寄越すのには抵抗を感じた。

  文革前、1966年6月頃迄は、現地で見聞した限り社会全体が平穏で、圧倒的多数の農民達は農地の一部分を、自由に耕作できる自留地として認められていた。外交関係がなかった日米両国の訪中人士は全て友好人士と認められ、我々日本人に対しては友好的以上の特別待遇を与えられたと言える。広州交易会参加後輸出した設備の納入検収立合いの為、66年5月17日武漢の南湖空港では飛行機のタラップ下迄、迎えの車が来ていた。一方上述展覧会の出品物は全てお買い上げ頂いた次第である。次回更に当時の日常生活を紹介しましょう。

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