中国進出-中国を知るシリーズ(37):体験した中国での集団管理(1)
中国で体験し又は見聞した多くの人々を管理する状況を、古い順番に数回に分けて紹介
しましょう。日本では考えも及ばない情況でしたが、中国をより深く重層的に理解するのに役立つのではないかと思う。
1-1.紅衛兵の大集会:1967年5月から同年末まで、天津と北京に駐在しましたが、「文化大革命」の初期段階で、紅衛兵活動の最も激しい時期でした。日本では中国中が動乱状態であるかの様に報道されていましたが、それは事実ではありません。「武闘」と言われる如く、肉親でもつるし上げる様な過激な情況もあった様ですが、中国全体として見れば8-90%は平穏な生活をしていました。但し、やたらと集会や学習会が多く、経済活動に甚大な悪影響をもたらしたことは事実です。我々商社マンも取引相手の貿易会社(中央政府直轄の国営で、対外取引が可能な会社は20にも満たなかった。地方に分公司と言う支店があったが直接外国とは契約出来なかった。スタッフは全てエリートだった)が週の半分位は集会や学習会に参加しており、仕事には多大な影響があった。
同時に駐在していた新聞記者達は、「何か異常事態がないか、騒乱がないか」と探し求めている様に見えて、彼らに向かって「我々が不景気なほど、皆さんは景気がよくなりますね!」と皮肉を言ったほどでした。
1-2.1967年10月1日の国慶節(建国記念日)の祝賀パレードは、従来の整然とした慶祝行進ではなく、100万人の紅衛兵の大集会となり、我々北京駐在の外国人はほぼ全て招待されて観閲台(天安門の少し手前の両脇にある)に上り、広場の紅衛兵を見渡すと共に天安門上の毛沢東等国の首脳達を仰ぎ見る状況となった。ここで野次馬根性を発揮し、これ程の沢山の群集をどう管理しているのか、観察すると共に中国側関係者に“取材”した。天安門前広場より10~15㎞以内とあまり遠くない所から来る紅衛兵は徒歩で集合し、それ以上遠い所からの参加者はトラック、バス等を動員して参加した由。昼食等は適宜持参とされ、飲用水は車道と歩道の段差を利用して臨時の水道管が曳かれており、50m程度毎に蛇口が付いておりアルミコップも紐で下げてあった。歩道中央部には 7-80m毎に長方形の鉄板(20cmx50cm程度)が20枚前後敷いてあるが、それを外すと下は下水道になっており、天幕で囲って臨時のトイレとしていた。又約200m毎に医師や看護師による救護班が待機していると言う状況だった。更に「工作人員」と言う腕章を付けたスタッフが何万人も配置されており、全体としては乱れない情況を維持していた。
しましょう。日本では考えも及ばない情況でしたが、中国をより深く重層的に理解するのに役立つのではないかと思う。
1-1.紅衛兵の大集会:1967年5月から同年末まで、天津と北京に駐在しましたが、「文化大革命」の初期段階で、紅衛兵活動の最も激しい時期でした。日本では中国中が動乱状態であるかの様に報道されていましたが、それは事実ではありません。「武闘」と言われる如く、肉親でもつるし上げる様な過激な情況もあった様ですが、中国全体として見れば8-90%は平穏な生活をしていました。但し、やたらと集会や学習会が多く、経済活動に甚大な悪影響をもたらしたことは事実です。我々商社マンも取引相手の貿易会社(中央政府直轄の国営で、対外取引が可能な会社は20にも満たなかった。地方に分公司と言う支店があったが直接外国とは契約出来なかった。スタッフは全てエリートだった)が週の半分位は集会や学習会に参加しており、仕事には多大な影響があった。
同時に駐在していた新聞記者達は、「何か異常事態がないか、騒乱がないか」と探し求めている様に見えて、彼らに向かって「我々が不景気なほど、皆さんは景気がよくなりますね!」と皮肉を言ったほどでした。
1-2.1967年10月1日の国慶節(建国記念日)の祝賀パレードは、従来の整然とした慶祝行進ではなく、100万人の紅衛兵の大集会となり、我々北京駐在の外国人はほぼ全て招待されて観閲台(天安門の少し手前の両脇にある)に上り、広場の紅衛兵を見渡すと共に天安門上の毛沢東等国の首脳達を仰ぎ見る状況となった。ここで野次馬根性を発揮し、これ程の沢山の群集をどう管理しているのか、観察すると共に中国側関係者に“取材”した。天安門前広場より10~15㎞以内とあまり遠くない所から来る紅衛兵は徒歩で集合し、それ以上遠い所からの参加者はトラック、バス等を動員して参加した由。昼食等は適宜持参とされ、飲用水は車道と歩道の段差を利用して臨時の水道管が曳かれており、50m程度毎に蛇口が付いておりアルミコップも紐で下げてあった。歩道中央部には 7-80m毎に長方形の鉄板(20cmx50cm程度)が20枚前後敷いてあるが、それを外すと下は下水道になっており、天幕で囲って臨時のトイレとしていた。又約200m毎に医師や看護師による救護班が待機していると言う状況だった。更に「工作人員」と言う腕章を付けたスタッフが何万人も配置されており、全体としては乱れない情況を維持していた。
1965年10月1日の国慶節のパレードにも招待されたが、その時のパレードは経済調整策が上手く進んでいたこともあり、明るい華やかな整然としたものであった。67年ではまるで様変わりしていたが、悲壮感はなく多くの紅衛兵は何故か狂喜乱舞の状態であった。実権派(特権階級)が倒され、平等社会が来ると信じたのであろう。何があろうと生き抜いていく中国人社会の一断面を見せられた思いがした。
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柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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Category: 中国事情
Posted by: yanagizawa