中国進出―中国を知るシリーズ(31):中国の穴場、湖北省武漢
私はJICAの林業関係技術援助の管理面の仕事を担当し、1996-99年の3年間武漢で
生活したことがある。この技術援助はその後も7年余継続され、中国の森林面積拡大の
基礎技術提供、指導面で大きな貢献をした。日本の国土の66-7%は森林で殆ど増減していないが、1996年当時中国では14%程度であった。最近は20%を超えたとのことで、増加率は顕著であり、大いに評価されて良いと思う。
ところで武漢の全体的印象であるが、私が中国各地を放浪した経験からでは、大連に次いで親日的な都市である。古くは秦の始皇帝が国家統一を果たす前は楚の国の中心地帯であり、更に古くは黄河文明に数千年遡る長江文明地帯でもあり(稲作の日本への伝播等日本との関係は最も古い)、今尚当地の人々は楚文化の継承者としての誇りを持っている。極端にデフォルメされた塑像等公園で見かけることもあろうが、これも楚芸術の一面である。武漢に長期居住される方には新味がないかも知れないが、お奨めポイントを下記しよう。私は今なお毎年武漢を訪れている。
1. 東湖:杭州の西湖の5倍もの大きな湖だが市内にあり、東湖には磨山を含む半島や入り江が沢山あり、湖中路も整備されている。磨山の南には日本以上に日本らしい 桜花園があり(みちのく銀行寄贈の由)、赤い太鼓橋や木造の五重塔も配置され、桜の種類も多く3月下旬が見頃である。広州他遠方から何万と言う人々が花見に来ている。武漢大学にも桜の古木が沢山あり、桜花路と言う通路も校内にある程である。
2. 咸寧の温泉:武漢市の南側に隣接する昔からの温泉都市であり、何度も遊びに行った。温泉場により各種の混浴もある。即ち日本式と言う小さい風呂が沢山ある形式、自然な池の様な形式、更にはプール形式等である。その一つ、太乙国際温泉度假村では地下に続く鍾乳洞もあり、中国各地で見た中では一番良かった。友人達との、又は家族での遊興にお奨めである。
3. 湖北省博物館:東湖西岸近くにあり、数年前に壮大な規模で新設された。黄河文明に遡る長江文明理解に最適であり、私は旧館時代から10回近く見学した。特に下述の編鐘は、武漢の170㎞北西随州の曾公乙墓で丸ごと出土した(生活用品や工芸品等も合計15,000点出土)。展示品コーナーでは、BC5-6世紀の青銅器文化の精華と地方王侯(大名相当)の豊かな生活が理解できる。出土記録により、編鐘は楚の恵王(将軍相当)よりBC433年に贈られたものと判明している。
編鐘:65個の鐘で構成され、握りこぶし程度の大きさから普通の寺院の鐘に近い大きさ迄あり、総重量は2,500㎏に達する。演奏者も多い時は編鐘だけで4人がかりで、琴や笛、笙、太鼓、石磬等と共に演奏されるが、博物館内の小劇場では舞踊を伴う演奏がある。編鐘初め他の古代楽器も全て複製品である。同様公演は東湖の磨山中腹の楚天台、黄鶴楼東端の小劇場、荊州博物館内劇場(武漢の200km西方)等でもある。
孔子は音楽を重視したが、国や社会に於いて、夫々の立場の者が必要な能力を存分に発揮し且全体が調和する重要性を、この交響楽とも言うべき演奏と同じと見做したものと思われる。日本では弥生時代の文物として、銅鐸がかなり沢山出土しているが、その原型はこの編鐘ではないかと見られる(柳沢の個人的見解)。但し銅鐸の紐を掛ける部分は薄い板状で半円形になっているが、編鐘では丸棒状でくびれている
4. 漢口の旧租界地区:第二大橋近接地から順に、昔はドイツ、日本、ロシア、フランス、イギリスの租界があった。私が特に印象に残っているのは、日本租界の憲兵隊宿舎が補修されつつそのまま保存されていたことである。抗日歴史の教育用かと思ったら
建築学的に当時としては素晴らしいものだったとのこと(昔の帝国ホテルの如きレンガを使用していた)。もう一点は、僅か200m位しか離れていない処に、当時の抗日戦の連絡事務所があって、記念館として保存され対外開放されていたことである。当時の
日本人憲兵はその存在を把握していなかったと見られる。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
Mail add. Knhr-yana-@jcom.home.ne.jp
生活したことがある。この技術援助はその後も7年余継続され、中国の森林面積拡大の
基礎技術提供、指導面で大きな貢献をした。日本の国土の66-7%は森林で殆ど増減していないが、1996年当時中国では14%程度であった。最近は20%を超えたとのことで、増加率は顕著であり、大いに評価されて良いと思う。
ところで武漢の全体的印象であるが、私が中国各地を放浪した経験からでは、大連に次いで親日的な都市である。古くは秦の始皇帝が国家統一を果たす前は楚の国の中心地帯であり、更に古くは黄河文明に数千年遡る長江文明地帯でもあり(稲作の日本への伝播等日本との関係は最も古い)、今尚当地の人々は楚文化の継承者としての誇りを持っている。極端にデフォルメされた塑像等公園で見かけることもあろうが、これも楚芸術の一面である。武漢に長期居住される方には新味がないかも知れないが、お奨めポイントを下記しよう。私は今なお毎年武漢を訪れている。
1. 東湖:杭州の西湖の5倍もの大きな湖だが市内にあり、東湖には磨山を含む半島や入り江が沢山あり、湖中路も整備されている。磨山の南には日本以上に日本らしい 桜花園があり(みちのく銀行寄贈の由)、赤い太鼓橋や木造の五重塔も配置され、桜の種類も多く3月下旬が見頃である。広州他遠方から何万と言う人々が花見に来ている。武漢大学にも桜の古木が沢山あり、桜花路と言う通路も校内にある程である。
2. 咸寧の温泉:武漢市の南側に隣接する昔からの温泉都市であり、何度も遊びに行った。温泉場により各種の混浴もある。即ち日本式と言う小さい風呂が沢山ある形式、自然な池の様な形式、更にはプール形式等である。その一つ、太乙国際温泉度假村では地下に続く鍾乳洞もあり、中国各地で見た中では一番良かった。友人達との、又は家族での遊興にお奨めである。
3. 湖北省博物館:東湖西岸近くにあり、数年前に壮大な規模で新設された。黄河文明に遡る長江文明理解に最適であり、私は旧館時代から10回近く見学した。特に下述の編鐘は、武漢の170㎞北西随州の曾公乙墓で丸ごと出土した(生活用品や工芸品等も合計15,000点出土)。展示品コーナーでは、BC5-6世紀の青銅器文化の精華と地方王侯(大名相当)の豊かな生活が理解できる。出土記録により、編鐘は楚の恵王(将軍相当)よりBC433年に贈られたものと判明している。
編鐘:65個の鐘で構成され、握りこぶし程度の大きさから普通の寺院の鐘に近い大きさ迄あり、総重量は2,500㎏に達する。演奏者も多い時は編鐘だけで4人がかりで、琴や笛、笙、太鼓、石磬等と共に演奏されるが、博物館内の小劇場では舞踊を伴う演奏がある。編鐘初め他の古代楽器も全て複製品である。同様公演は東湖の磨山中腹の楚天台、黄鶴楼東端の小劇場、荊州博物館内劇場(武漢の200km西方)等でもある。
孔子は音楽を重視したが、国や社会に於いて、夫々の立場の者が必要な能力を存分に発揮し且全体が調和する重要性を、この交響楽とも言うべき演奏と同じと見做したものと思われる。日本では弥生時代の文物として、銅鐸がかなり沢山出土しているが、その原型はこの編鐘ではないかと見られる(柳沢の個人的見解)。但し銅鐸の紐を掛ける部分は薄い板状で半円形になっているが、編鐘では丸棒状でくびれている
4. 漢口の旧租界地区:第二大橋近接地から順に、昔はドイツ、日本、ロシア、フランス、イギリスの租界があった。私が特に印象に残っているのは、日本租界の憲兵隊宿舎が補修されつつそのまま保存されていたことである。抗日歴史の教育用かと思ったら
建築学的に当時としては素晴らしいものだったとのこと(昔の帝国ホテルの如きレンガを使用していた)。もう一点は、僅か200m位しか離れていない処に、当時の抗日戦の連絡事務所があって、記念館として保存され対外開放されていたことである。当時の
日本人憲兵はその存在を把握していなかったと見られる。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
Mail add. Knhr-yana-@jcom.home.ne.jp
Category: 中国事情
Posted by: yanagizawa