☆ 文革時代中期の1972年1月に、商品PRの一環として輸出代理をしている、あるメーカーの機器類の小型展示会を開催した。最後に天津側関係者へのお礼の宴会をしたいので、出席可能者名簿を出して欲しい旨、受入先の中国国際貿易促進委員会天津分会に申し入れたところ、間もなく名簿が届けられた。ほとんどは天津市革命委員会の代表委員の方々で、この展示会に多少なりとも関係ある方々はほんの数名で、9割以上は見知らぬ人達だった。招待したい人達があまりにも少なく、突き返すことにした。
その時、直接・間接世話になった方々は全員招待するが、それ以外は招待したくないとの条件を付けた。当時は、「実際に体を動かす労働者や農民こそ主人公であり、幹部や知識分子は彼らに学べ」と叫ばれていた時代で、我々の意向はすんなり受け入れられた。
 結果として、関係幹部の他、会場に出張サービスしてくれた税関の担当官、交代で寝ずの番をしてくれた解放軍の若い兵隊さん、お茶入れや掃き掃除のおばさん、通訳や展示品説明員、運輸や保管担当者、貿易公司の担当者、設営装飾関係者等々、合計81名を招待することになった。当時外国人の招待する宴会に出席できる等と言うことは、一般には夢にも思えないことであったので、参席者は一様に感謝感激の体であった。各テーブルを回り、お礼の言葉を述べて乾杯しようとすると、彼等は「テーブル毎ではだめ!一人ずつ乾杯したい!」と主張、止む無く応じたが、結果として茅台酒を81杯余飲むことになってしまった。計算すると一斤半(750ml)以上飲んだことになる由。当時の革命委員会は彼等が散々批判していた“実権派”同様になっていたとの印象が強い。
☆ 文革時代の1972年9月には、日中間の国交正常化が成し遂げられたが、当時中国政府関係者より内々聞かされたところでは、賠償請求権の放棄は巷間伝えられている理由ではなく、毛周両首脳の深い戦略だった由。又、この時代まで、我々在留日本人は、何処に行っても一律「外賓」と呼ばれ、準国賓待遇(注)を受けていたので、個人ベースでは国交正常化後の待遇は、2-3段階下がってしまった。
 (注)飛行機を利用すると出迎え者はタラップ下まで、車で出迎えに来る。列車を
利用すればプラットフォーム迄車が入れ、到着すると貴賓室に通され駅長より挨拶を受けた。博物館等の見学では人払いがされており、歌舞音曲の鑑賞では貴賓室で接待され、開演直前に前から5-6列目の中央部に席が開けて準備されており、多くの観衆により拍手喝采で出迎えられ、着席した等々。
☆ 中国紅衛兵との議論で、伝統的京劇や佳人美人の登場する演目も復活すべしと主張したが、彼等は「白毛女」、「紅色娘子軍」、「紅灯記」等々革命的と称する演目が良い、
王侯貴族主体の演目は、腐敗堕落だと言う様なことを主張していたが、今にして思えばそう言わざるを得なかったと、バカな批判をしたものだと思い返している。それにしても毎週の如く、首都劇場、民族文化宮礼堂、人民大会堂大ホール、中山堂等々へ招待され、「白毛女」等、同じものを10回以上も見せられ、心理的には疲れたものであった。
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柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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