現代でも米作は麦作より面積当りの収量が2倍であり、米作主体の華南は麦作が多い 華北より豊か(農村の)だとして、「魚米の郷」と言われる。長江民族の 大勢力の楚が、黄河文明を代表する秦に何故敗北したのであろうか?それは秦が騎馬民族で機動力が圧倒的だったと言うことである。鉄砲が武器になる前、日本の戦国時代でも武田軍は騎馬軍団で強く、周囲から恐れられたことや、中国大陸では騎馬民族の匈奴等を恐れ、長城の建設や補強が何度も行われたことを想起すれば明白でしょう。
 孔子も重視し、日本とも関係ありそうな古代楽器を紹介しよう。30数年前に湖北省随州市郊外(武漢の北北西160km)で、曾侯乙墓(そうこういつぼ)が発掘され、青銅製の各種生活用品等1万余点が出土したが、その中に楚の恵王熊章よりBC433に贈られた壮大な編鐘と言う楽器があった。大小65個の鐘で構成され小は握りこぶし程度、大は小さ目なお寺の梵鐘程度で総重量は2,500kgもある。複製品が作られて、武漢の湖北省博物館、東湖の中の磨山の楚天台、及び荊州博物館で演奏されているが、架台は三段になっている。この楽器だけで4人が分担し、叩いて演奏している。琴や太鼓などと合奏させて観客に観賞させているが、孔子が楽器を重視した対象は、この楽器と思われる。それは夫々の持ち場の者が、「互いに協調しながら自分の役割を果たせ」と言っているからです。文革中にはこの考えは否定されたが、現在の中国は新幹線を和諧号と命名して、再度強調している。日本で見つかっている銅鐸は、この編鐘の一部が日本に渡来し、音を出す鐘から祭器になったと言うのが私の見方である。編鐘演奏に併わせ舞踊も披露されているが、その衣裳は天女の羽衣そっくりである。湖北省には仕事の関係で3年間滞在し、更に何度も出張したので、観賞回数も10回以上になる。日本人観光団が大勢で入場すると、即興で日本の音楽を演奏してくれる。
 越が楚に滅ぼされた後、越の人々は四方八方に逃げたとの事である。一部は雲南省まで逃げて行き、シーサンパンナ(西双版納)のタイ族になったとの説があり、胴長で足が短く、下駄を履き酢漬けの魚や赤飯を食べ、鳥居を作る等、人体的特徴と風俗習慣が、日本に類似している。この説は現地に旅行した時にも聞いたが、越の人々は大量に 日本の九州にも逃げて来て弥生文化を創ったとの説もある。呉も越も海洋を航行する艦隊を持っていたが、特に浙江省東北部近海に広がる舟山群島の漁民達は古来、遠洋漁労もしており、船上に台所を備えていた由(今もその名残はある)。
一方日本の縄文文化は北から南西に、弥生文化は逆方向で発展してきたことは、人口比率の変化にも見られ、気候が現代同様温暖だった4-5000年前には推定総人口26万で、8割以上は東日本に居住していたが、其の後寒冷期となり、人口は7-8万人に減少した。2000年前辺りから、再度温暖化し西日本の人口が急増し、AD2-300年から人口比は逆転し、総人口60万人中西日本が6割となった。4-6世紀の古墳時代に総人口500万余と更に急増したが、やはり西多東少であった。以上は考古学的に判明している由。又漢和辞典を見ると、音訓の読み方に加えて、漢音と呉音の表示があり、上海の友人の言によれば、上海語は日本語との共通発音が多いとのこと。従って、紀元前から華東地区の多くの中国人(出土した人骨の鑑定では男性が多かった由)が、断続的に日本に移住し、縄文人と混血を繰り返し弥生人(日本人)になったことは間違いないと見られる。当然、朝鮮半島からも沢山の渡来人があったが、その多くは 半島での戦乱により百済や新羅から来た者が多く、時代的には殆ど5-6世紀以降である。目に見える多くの文化は大陸の影響を受けてきたが、精神文化面では今尚、縄文文化を受け継いでいるのではなかろうか?特に日本各地に残る祭礼のほとんどが、縄文文化である太陽、河川草木等自然崇拝であり、その象徴である神社が氏神様を含めると優に100万を超えて今尚存在していることが、それを示していると思う。人種的にも縄文系を多く残すのは、沖縄を含む西南諸島と北海道のアイヌ人であろう。結局、人の移動により人種や見える文明は混合するが、更に奥深い精神文明では、結局は定住し続けた「土地柄」に、大きな影響を受けるということではなかろうか?これは、動植物の進化に留まらず、人々の風俗習慣に就いても言えると言うのが、中国各地で生活と仕事をして来た私の結論です。典型的な事例を挙げると、私は夏回族自治区の田舎町(人口7万人)に仕事で2年間滞在したが、本格的な中華料理はなく、土地の人々が中華料理と称するレストランには「漢餐」との看板が掲げてあったが、北京や上海とはまるで異なっていた。台湾人が「つぼ焼きうどん」専門店を開業し、我々数人の日本人には大助かりだったが、半年で撤退してしまった。又朝鮮焼肉店も瀋陽から出店して来たので、我々日本人は大喜びしたが、この店も半年足らずで撤退してしまった。街の人々は最初物珍しさから客になったが、やはり口に合わぬらしく、足が向かなくなったものである。尚、人口の8割は漢民族であり、親や祖父母の時代に入植して来たが、2代目、3代目になると土地柄に染まってしまうとの一つの証拠と思う。更に、困ったのは、私の勤務したJVの副総経理は中国側から出ていたが、彼は「皆さんは、日常ろくな物を食べていないと聞いている。我が女房は料理が得意で、客をもてなすのが大好きだから食べに来い」と、再三言う。毎回断るのはまずいと判断、2回に1回は招待に応じたが、回族風と半モンゴル風で、正直抵抗を感じた。特に羊の丸ごとの太腿肉や調味料に抵抗を感じたが、彼は得意満面、「上海料理や広東料理はまともな人間の食うものではない、奴らはどうしてあんなまずいものを食べるのか、皆さんはなるべく食べないように!」と言う。彼も奥さんも 漢民族ではあるが、幼少時よりこの黄沙の発生源でもある砂漠の町で成長して来た方々であった。土地柄の違いと歴史的な相違点への理解は、異文化理解には不可欠で、その理解がないと、交流が上手くいかず、時には不利になろう。次回は「中国人幹部教育の要諦」に又戻りましょう。

柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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