尖閣諸島防衛に関連する日本の安全保障問題は前回記した通りであるが、日本の常識は周辺諸国から見れば夢想的なものである。
最近日本の漁船が、日本のEEZ(排他的経済水域)に居たにも拘わらずロシアに拿捕されて、900万円もの保釈金を支払ってやっと釈放されたばかりであるが、何故か国民の関心はあまり高くない。昔韓国の初代大統領の李承晩が勝手に竹島を含む海域に防衛ラインを設定したが、日本では「李承晩ライン」と呼ばれた。幾多の日本の船舶がそのラインを越えたとして、拿捕された時代があった。その拠点である竹島は、今では韓国の軍事基地であり、子供達への教育の場でもあり、観光地でもある様に変貌してしまった。
一日も早く多くの日本人が周辺諸国の斯様な動きを深刻に認識し、対応策が必要なことを感ずるようになることを願うばかりである。
話は変わりますが、私は1965年9月から香港経由で経済代表団の青年代表の一員として初訪中し、そのまま北京に残留し駐在員になってしまったことがある(その後何度も駐在、出張を繰り返し都合25-6年間中国各地で仕事をし、生活をしたことは以前記した通り)。
初めての訪中で、共産党一党独裁国家に入った為、中国の人々は絶えず監視され、さぞや緊張した生活をしているのではと思っていたが、街で見かける人々の表情は貧しいながらも明るく、若者や解放軍の兵士達が老人や地方からのお上りさんと見られる人々を自主的に助けている姿を散見し、感動したものである。一方奇妙な国と思われたのが、一年近く北京以外にも足を延ばしたが、犬猫を見かけることもなく、スズメやハトなど野鳥を見かけることもなかった。既に何度も訪中経験を有する年配者の説明によれば、当時の中国は1957-8年毛沢東の指導の下に大躍進政策が実行されたが、悪天候とも相まって1000万以上の餓死者を出して失脚し、劉少奇が国家主席となり自留地(個人が自由に耕作できる土地)を認めるなど、経済政策を調整し成功しつつあった時代であった。大躍進政策は稲を密植するする等自然の法則を無視した農業技術を広く強要する等、無茶な政策を採用し、何でもかんでも集団で仕事をさせ、食事までも集団でする人民公社と言う組織作りをしていたが、それが大失敗に陥ったものである。食料不足の為、野草や野鳥など食えるものは何でも食べたと年配者は話していた。密植された稲穂の上に子供を乗せても倒れない様子や、村中の人々が音の出るものを乱打して野鳥を追いかけ、疲れさせて地上に落とし捕獲すること等は日本でもニュースとして報道されたほどであった。然し、1966年になると毛沢東の巻き返しが、若者たちを焚きつけて、「造反有理」等と叫ばせ「文化大革命」として、全国的に展開された。国民にある程度の自由裁量の余地を与えた為に、経済格差も生じてきたことや一部の官僚等が特権階級化したことも、この運動が全国的に展開され、劉少奇や鄧小平が失脚することとなった。
 一方、現在の中国の情況を見るに、返還時の「一国二制度」をするとの国際的約束もほごにして、香港にも共産党専制支配を採用し、ついに「リンゴ日報」を休刊に追いやった。中国は日本に対しては、再三再四「歴史を教訓にせよ」と批判していた時代があったが、自らは歴史の教訓を忘れてしまったように見える。遥か昔毛沢東は「独裁的支配者の圧政は一時的には成功するが必ず失敗に終わる。一方人民(一般大衆)の解放闘争は失敗を繰り返すが、最後には必ず成功する」と論断したことがあるが、最近の中国は少数民族政策を含めて、歴史の教訓を忘れていると言わざるを得ない。文革中毛沢東の取り巻き、四人組や毛沢東自身も腐敗堕落したが、やはり「権力は腐敗しやすく、絶対的権力は絶対に腐敗する」との、歴史的教訓からは逃れられないのではなかろうか!
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