☆ 少々前後するが843-2-1の日記には還俗させられた僧尼(僧侶と尼僧)の寺院への出入りが禁じられたと記し、又宮廷の仏教行事は道教に変更させられ、翌年7月には寺額のない仏堂は破壊させられ、還俗した僧尼は兵役に就かせられ、進士や学士は勅令で道教に入れられた。843年6月27-29日には長安に大火があり、四千余の家屋が焼失する他、内裏でも失火、神農寺が焼失した。円仁の弟子、惟暁が7月24日夜中に八か月間の闘病の末死亡、現地寺院に埋葬された。844年9月武帝は仙台(神聖な観望台との意)と云う高さ45m余の楼閣を作れとの勅を出し、多くの作業者が徴集され更に行幸(と言うより行楽だが)を繰り返し、応対費用を寺院に出させ、拒めば処分する等繰り返した。
☆円仁は再三帰国すべく申請していたが、半ば軟禁状態が続いていた。然し遂に845-5-14“外国僧は還俗させ強制送還する”との勅が下り、追放される形式で、翌15日には長安から帰国の途に就いた。途次賄賂など要求されず、逆に贈り物を与えられることもあり、それらを売却し旅費の助けとした。唐に滞在中、或いは旅の途中斯様な援助は度々あったと日記に記している。6月1日には洛陽着、6月13日には開封着、6月22日には江蘇省泗州(シシュウ、徐州市東南100㎞、洪沢湖北岸より北方50㎞にある現在の宿遷市と思われる)に到着した。当所にあった天下に著名な普光王寺は財物、奴婢など官に没収され、寺自体破壊されようとしていると嘆いている。6月28日には大運河を南下し揚州(鑑真和尚の故郷でもある長江北岸に近い大都市)に至った。此処より船にて帰国せんとしたが、官僚の無理難題があり、山東の登州(山東半島北端の街、蓬莱)に向かえと命ぜられ、止む無く指示通り7月3に出立した。7月15日に海州(現在の連雲港付近)に至り、滞在し帰国の方途を策したが、通過するのみが許され水路から山路に変えての旅となった。途中の旅は人家も道もない沼地や獣道の如き悪路も通り、正に艱難辛苦の旅であった。よくも斯様な状況下でも記録に残せたなと感嘆するばかり。やっと8月16日登州に到着したが、その少し前の8月7日に総合的な仏教弾圧の勅が下ったこと、破壊された寺院が46,600に及ぶこと、還俗させられた僧尼、奴婢等41万、更には景教徒(キリスト教の一派)や拝火教(ゾロアスター教)等の教徒も還俗させられ、財物は没収され、怠け者一千万人の追放があったと聞かされた。登州でも金銅仏像から金箔を剥ぎ取り、計量して進上せよとの勅のあることも知った。8月21日牟(ボウ)平県(烟台市東南部郊外)を通過し、山東半島東端より50㎞内陸部の文登(現在の文登市)に、8月24日やっと到着した。衣服はぼろぼろになってしまったが、早速県令に面会し自分で船を手配し帰国準備をしたい旨許可を求めた。県令は求めに応じ文登の東南40㎞にある勾当(コウトウ)新羅所(新羅居留民事務所)に行くよう勧め、伝言状を託してくれた。此処まで来ればもうすぐ帰国となりそうなものだが、更に2年もの時間を費やすことになるが、それは次回とします。
☆此処で円仁の学者らしい一面である天体の動静に関する記録を若干紹介しましょう。
 彼の日記から拾い出してみると;841-11-1の冬至節に彗星が出現、841-12-4には月と金星が相近づき同方向に行くと記述、842-8-16、843-8-15、845-11-15には夫々月食があったと記録、又846-12-2には日食があったと記述している。


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