2019-7-30 中国進出―中国を知る(179)円仁の入唐見聞録(5)
五台山に近づくと普通院と云う簡易宿泊所が1-3㎞毎にあり、誰でも無償で利用可能であった。840年4月22-3日頃円仁は五台山に到着し、最初の5日間は竹林寺に宿泊した後大華厳寺に移り、一か月半滞在した。その間4日間の時間をかけて、五台山との名称の基になっている周囲の五つの峰々に登頂、巡礼した。大華厳寺では、この寺院こそ天台の伝統を継承するものだと感嘆した様子を日記に記し、同時に必死になって重要書物を書写した。五台山では種々の奇跡を見聞したが、現在乾燥地帯に変化している五台山周辺が、当時は湿潤で「千年の雪が夏でも融けずに氷河となり谷を埋めていた」との目撃談も記している(5月21日)。更に当時すでに石炭が家庭料理用の燃料として広く使用されている状況を驚き、記録している。尚、山西省は今でも石炭多産地区である。
五台山では周辺も含めて平等の精神があまねく徹底しており、老若男女、僧俗貴賎を問わず同じようにもてなされており、しばしば精進料理を振舞われ、参加者の数も時には千人にも達したと何度も記している。一種の貧民救済活動も行われていたことにもなるが、当時五台山の名声は広く行き渡り、上は皇帝から下は一般庶民まで寄進する人達は膨大な数に上っていたことも、背景にあったことは間違いなさそうである。又五台山の極楽とも言える状況は広く長く、民心をつかみ日本まで伝わり、明治3年生まれだった私の祖母の耳にも届いていたものと思われる。
私自身、祖母から託された地上の“極楽”五台山巡礼を何時かは果たそうと思っていたが、初訪中の1965年以来30年余経てもチャンスがなかった。然し1999-2000年の一年余ODAの仕事の関係でチャンス到来、無理なく実現した。と云うのは黄土高原治山技術援助のアフターサービスの仕事に従事したが、現場は山西省の西南部の吉県(60万㎢の黄土高原全体の中では東南部に位置する)で、北京林業大学に拠点を置いて、毎月の如く一週間から10日間出張した。吉県は当時大変貧しく、米のご飯もなく一人当たり平均年収900元だった(それでも日本の援助のお陰で10年前の400元から所得倍増したと現地の人々は自慢していた。谷底まで水汲みに行っていたが、民家が比較的多い傾斜地の途中から水がしたたるところがあったが、植林のお陰で年中かなりの清水が流れ出る様になり、コンクリート製の大きな水槽を建設し電動ポンプも省の援助を得て設置、各家庭に送水できるようになった他、スモモやリンゴも育成し、大きな収入源になった由。私も食べてみたが乾燥地帯での生育でもあり大変美味しかった)。北京からの出張はほぼ毎回JICAが供与したランクルだった。900㎞もあるので、早朝出かけ夕方到着であったが、一路南下し石家庄で右折西進し、太原郊外(此処までは高速道路を走行)で左折し南下;帰路はその逆の道順となるわけだが、太原で右折せずそのまま北上すれば五台山で、時間的にも無理な迂回ではなかった。五台山が近づくと大きな「仏教聖地」とのアーチ状の看板があり、中心地帯には沢山の寺院があり、全体としてすっかり観光地化していた。短時間の立ち寄りであったこともあり左程の感激はなかったが、祖母の遺言とも言える願いを果たすことはできた。
円仁の五台山滞在も三か月弱と左程長くはなく、次に向かったのは長安の都(現在の西安)であったが、五台山を出立して間もなく、日本では想像も出来ない程の悲惨な社会状況を目の当たりにすることとなったが、それは次回報告しましょう。
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