2018-7-26中国進出-中国を知る(164):中国歴史地図に見る朝鮮半島
あまり報道されなかったが、最近注目すべきニュースが北朝鮮にあった。それは金正恩委員長が地方視察の際に激怒した様子が、北朝鮮国内テレビでも報道されたと言うことです。中朝国境近くの工場視察の際に、科学技術的管理がなってないとか(7月2日)、ダム工事現場視察の際には。工事の遅れに就いてです(7月17日)。金日成時代から国のトップが、あたかも万能の神様の如く各種の現場指導をすることはあったが、今回の出来事は大失敗だった中国の大躍進政策や文革時代の産業政策を彷彿させるものがあるので、是非取り上げたいが、それは次回として前回予告した中国の歴史地図に見る朝鮮半島の状況後半を先ず紹介しましょう。
隋の煬帝(在位604-618)は百万とも言われる大軍を以て高句麗をAD614 迄再三攻めたが、成功せず、隋朝崩壊の大きな原因にもなった。この当時の高句麗は中国長春の北方、ハルピンの西方まで支配地を有していたが、何故か中国の歴史地図では国号は既に高麗となっている。次の唐時代には、半島北方は高麗、東南部は新羅、西南部は熊津都督府(660-665)としている。百済の存在を意図的に無視しているのが不可解。唐時代中期には現在の平壤以南を新羅としているが、解説蘭にも時期を明記せず、唐の軍事力を利用して百済と倭(日本)軍に勝利した後、新羅は唐軍を追い出した(AD676、爾後935まで続く)のを認めたくないのかも知れない。
唐時代後期には新羅の北方に渤海国を明記するも、国境線なし。尚隋朝時代以降は沖縄を琉球と明記、台湾は夷州から流求と表記を変更した。
五代十国時代(AD907-960)には半島は高麗(成立はAD935)となっているが、その支配北限は平壤の北郊外迄と記し、首都は開城(1972年に参観したが、保存状況悪し)明時代(1368-1644)には中国との国境線をほぼ現在と一致するように表記している。AD1393には李成桂が朝鮮王朝を成立させ、首都を現在のソウル(漢城と表記)に置き1910年まで518年続いたが、その後日本に併合されたことは地図上にもなく、中華人民共和国成立後も半島全体を朝鮮との表記している。
尚日本に対しては、4世紀前半までは九州地区に倭と記し、4世紀後半には倭と言う表記の位置を岡山県辺りに変更し、西日本を倭国が支配していると間接的に示している。隋朝の6世紀後期には、倭国との二文字を関東地方から近畿地方にまたがって記し、日本全体が倭国により支配されていることを示し、7世紀より日本との国号で東北以西を支配していることを示しているが、それから300年の10世紀までは北海道に毛人と記して、統一日本の外にあったと間接表現している。台湾に就いてはずっと流求と記してきたが、13世紀の
元時代には琉球の文字に変更し、沖縄など日本の西南諸島は台湾の一部の如く琉球群島と記し、17世紀の清時代以降は、日本の尖閣諸島を魚釣島(福建)、赤尾嶼(福建)と記してあるが清朝後期になると、何故か括弧内の表記はなくなり、現在に至っている。尚「嶼」と言う文字は小さい島との意味である。最後の中華民国時代の解説蘭には「1945年9月 日本により占領され、植民地にされ“満州国”と偽称されていた東北三省は遼寧省等9省及びハルピン直轄市となった云々」と記されている。
以上の様に、朝鮮半島のみならず中国周辺の状況に就いては、国際的にも認定されている事実よりも、中国の思惑や願望が反映されて記されていることが分かります。