2016-11-2 中国進出-中国を知る:(125)この50年余現地で見た中国(16)
1996年初林業関係専門家(前林業関係公務員)3名と共に、私は北京経由で湖北省武漢市に赴いた。国の発展途上国援助(ODA)機関であるJICAにより、派遣されその後3年間、湖北省林木育種センターを武漢に設立し、そこを拠点として活動することとなった。JICAの活動は大別すると技術援助、物的援助、緊急援助、青年海外協力隊員の派遣、金融面の援助の五分野になるが、私は技術援助での現地管理面を担当することとなった。現地調達(購入)や通訳の仕事も担当したが、我々派遣員は現地側より一律専門家と呼ばれた。
半ばボランティア活動で湖北省の辺地で活動していた青年海外協力隊員や武漢に駐在していた民間の日系企業関係者とも一定の交流があった。1999年末に一旦帰国し、急いで準備し4月には北京林業大学に拠点のあった同じく技術援助であった黄土高原治山治水訓練センターのアフターケア(8年前実施終了した事業)の為、単身赴任し現場である山西省吉県(北京より900㎞西南方向)に、翌年4月まで毎月のように出張した。以上の活動の中から貴重な経験等を紹介したい。
① 1996年時点で中国全土の森林占有率は14%余だったのが、20年後の現在は20%余にまで拡大したとのことである。中国の国土は日本の25倍故、日本国土面積の1.5倍分の森林が増加したことになり、精鋭樹木の種子や苗木を集めて増殖させ(遺伝子培養を含む)供給する
林木育種センターも相当の貢献をしたことになる(尚日本の森林占有率は66%前後で推移)。
② 1998年夏未曽有の大雨が続き中国各地で洪水被害が出たが、海から900㎞長江を遡った地点の武漢は海抜わずかに25-6mであるにも関わらず、大きな被害はなかった。水位が29mを越えそうになったら、武漢上流の堤防を故意に決壊させ、長江の水を広大な農村地帯に流し武漢を守る「分洪政策」を実施しているとのこと。勿論農村地帯には一定の補償はする由だが、洪水が治まった後、決壊した堤防の修復には、先ず廃車となったトラクターやトラックの残骸をどんどん投入しているのをテレビニュースで見て驚いた次第。
③ この育種センターを宣伝し、寄り合い所帯のセンター員の結束を強めるために、作曲の好きな同僚と相談し、私が作詞しセンター歌(中心歌)を作り、折々に歌ったが、最近訪問し聴取したところ、今では歌われなくなったとのこと。日本人が作った歌は、日本人が居なくなれば歌わなくなってしまう、残念な現実を耳にした次第。
④ 黄土高原と言うと、広大且つ平坦な高原を想像されるかも知れないが、実際は饅頭形、駱駝のコブ形、馬の背形の三種類に分かれ、平坦な頂点はテニスコートから、大きくても学校の校庭を7-8枚並べた程度で、あたかも複雑な山岳地帯の山頂平坦部と言ったところである。谷川が沢山あり、7-9月に計400㎜程度の降雨がある由だが、水の流れているところは少ない。然し、土地(黄土)は肥沃で、援助開始の時に1,200haの植林と併せ、経済林と称して梨、リンゴ、桃等も植樹し、今(2,000年時点)では省外にも売れて住民の生活レベル向上に役立ったと喜んでいた。又植林の結果、崖から水滴がしたたる程度だったのが僅かながら水流となり、生活用水になったと感謝していた。僅かな降雨を集めて貯蔵・利用する水窖(スイコウ)と言う地下水蔵が人口10万人の吉県には16,000か所も作られていた。
⑤ 残念だったのは、日本からの援助である旨の広報板が国道から7-8km入った現地にしかなく、国道沿いに作るのに、現地との交渉に半年間かかった。世界銀行からの借款での植林との看板が国道沿いに沢山あったので、3x5mと同じ寸法のモノを作らせたが、交渉が難航した理由は、「国連からの援助は誇らしいが、日本からの援助は有難いが、恥ずかしいのであまり他人に知られたくない」とのことだった。複雑な民情と言うべきか!?次回更に若干補足します。
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