1968年は訪中しなかったので、思わぬ出来事があった1969年に就いて紹介しましょう。
1、69北京上海日本工業展覧会開催の為、3月北京に出張し展覧会も順調に開催されたが、最先端技術を備えた製品は売却不可との日本政府の条件付き出品だったことが、大きな問題となった。中国側や出品者一部が条件撤廃のデモを計画したが、当時現地日本側最高責任者だった宇都宮徳馬氏(国会議員でもあり、友好人士と見られていた)は、日本政府への反対デモを外国である中国で実施するのは、適切でないと判断し、デモは取りやめた。これに対し中国側は上海での開催には協力できないとの意向が示され、北京だけの開催に終わった。当然ビジネスには悪影響が出た。
2、1958年5月2日には、長崎で開催中だった中国切手展覧会で、掲揚されていた中国国旗を右翼の青年が引きずりおろすと言う事件があったが、中国とは国交がなく台湾の蒋介石政権と国交関係を維持していた為、政府は「法律的に国旗ではなく微小な器物損壊」として処理した為、国家の尊厳が侮辱されたとして、当時の中国首相、周恩来は日中間の貿易関係を全面的に中断したことがある。時には経済的損得より、政治的判断を優先する中国であったが、爾来日本では政経分離が叫ばれるようになった。
3、教条主義的な中国の文革路線とソ連の現実的路線との論争の影響もあり、中ソ関係がぎくしゃくしていたが、3月2日にはついに黒竜江支流のウスリー川の中州、珍宝島(ダマンスキー島)で軍事衝突が発生、8月には新疆ウイグル自治区西北,塔城市付近でも国境紛争が発生し、中ソ関係は極度に緊張してきた。北京で仕事し生活していた我々にもひしひしと感じた。
ソ連が核攻撃も辞さずとほのめかしたことから、毛沢東は核シェルターの建設や東北地方に偏重していた重工業を南西部に移すよう指示した。北京でも多くの公園等で地下壕堀りが進められた。十数年後、釣り道具を買おうとして秘書兼運転手に適当な店に案内する様頼んだら、天壇公園の一角にある地下街に案内された。核シェルターの転用と言うことで、中には理髪店や簡易宿泊所等もあったが、入り口は何段階にもなっており、頑丈な鋼鉄の扉もあって、本来は正に核シェルターであった。
4、文革終了後の1977年頃から頻繁にユーザー工場訪問をしたが、その中には四川省徳陽市より40㎞西北の山村とも言うべき漢旺にあった東方タービン工場もあった。周辺は極めて貧しく、たばこは一本ずつ売っており、蒸留酒の白酒も計り売りしていた。その50㎞西方は数年前発生した四川大地震の震源地、汶川である。成都の南方70㎞の眉山市にも郵電部傘下の工場がありユーザーだったが、人工水晶を生産する圧力窯は何と、大砲の砲身だった。街中には草鞋(ワラジ)を履いた人々が沢山居り、記念に買おうとしたが、何処にも売っておらず、履いている人に聞いたら、「こんなもの自分で作るんだ!」と、何をバカなことを聞くんだ、との表情をされ叱られた。然し、改革開放後も訪問し、更に60㎞南方の巨大な岸壁大仏で有名な楽山市や我眉山市も訪れたが、何とあの草鞋がお土産として売られていた。我眉山市は軽井沢の如く自然環境が良く、高地である為涼しいところだったが、宿泊した部屋は朱徳将軍も利用したということで、  バスタブが無造作に大きな部屋に、木材の足下駄を履かされて置かれていた。
5、当時、中国では盛んに「四つの敵」論が叫ばれていた。即ちアメリカ帝国主義、佐藤反動政府、ソ連修正帝国主義、宮本修正主義集団(67-3-19付け赤旗の論文で対決決定的に)。全く仕事にならないなと、駐在員一同悩んだものであった。
  次回以降、更に文革余波と国交正常化へのうごめきについて紹介しましょう。

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