唐山大地震の時の様子を何度か記しましたが、非常時に於ける中国人の生き抜く力と日本人への配慮が周到だったことを知って頂く為でした。若い時代に周恩来は日本への留学を経験し、鄧小平はかなり長期間留学等でフランスに滞在した。両氏が実権を握っていた時代は、今ほど対日関係は悪くなかったが、その後の大きな変化は誰でも知るところです。両氏は日本を含む西側諸国に対して、政治的思惑とは別に個人的には評価もし、好意も持っていました。文革中と雖も日本人に対しては、周到なおもてなしをするようにとの、周恩来の指示があったと何度も聞いたことがあり、盛んに日中友好と叫ばれ、宴席では「中日友好の為に!」と言われ、乾杯しました。日本人だけでなく外国人を外賓と呼び大変大切にしました。蔑視されたということだけでアメリカ人を傷つけた青年が死刑と言う厳罰に処されたことがあったのも同様意図だったでしょう。
 毛沢東も抗日戦争で「日本軍からひどい目に逢わされたが、日本軍が国民党軍と戦い国民党軍を弱化させてくれたので、その後の解放戦争では解放軍(共産党軍)は大いに助かった」、と言ったこともあります。中国のその後の為政者や一部の知識人の夢は、「中国が軍事経済両面のみならず総合力で強大になり、アメリカにも十分対抗できるようになろう」と言うことは、以前は内密にしていましたが、今では「太平洋は中米二か国が分担(分割)して管理するには十分な広さがある」と公言するまでになりました。

 1840年のアヘン戦争以来、100年余にわたり、日本を含む列強諸国に好き勝手に扱われた、それは中国が弱く、内紛が絶えなかったからである、との中国なりの教訓を得て、「力こそ正義であり、現在の国際的ルールや慣例は、殆んど中国が弱かった時代に作られたものであるから、必ずしも従う必要はなく、もう一段と強くなったら大いに海外進出し中国の意に叶ったルールに変えてやろう」と言うのも、中国の大きな夢であり、長期的戦略です。

 ところが、1989年4月に胡耀邦を追悼する学生達の集団的行動が、天安門前広場への座り込みに発展、6月3日深夜から「天安門事件」と呼ばれる状況になったことは皆さんご承知の通りです。当時我々北京駐在員は「もし日本の皇居前広場で類似の座り込みが発生すれば、直ちに消防車を利用したり、催涙弾を使用したりして学生達を排除するが、どうして放置するのか?」と普段交流のある中国側機関の中堅幹部等に進言したものでした。彼等は「もう暫く様子を見る必要がある」
との意見で、この学生運動は成功するかも知れないと、期待している節もありました。その後、中国各地で、土地の強制的収用、賃金や年金(養老金)不払、劣悪な労働条件等に対する集団的騒動が年間20万件近く(中国検察機関発表で、100人以上の規模で無認可のものと言う)発生する事態となっており、対外的な緊張関係を創出し目を反らさせる為、対日関係では特に強硬策を取る様になったとも言われる。然し、パソコンやスマホでの情報のやり取りが瞬時に行える現代社会ではどんなに要員を増やして情報を削除しようとしても追いつかないのが、実態ではなかろうか?

 一方では反腐敗闘争として「虎もハエもたたく」と言われ、実行されているが、どんな派閥や階層に属していようが、汚職問題は普遍的に存在しており、過去にも再三に亘り実行したが根本的解決には至っていない。せいぜい反主流派に属する人達の失脚で終わりとなってしまうのではなかろうか?1989年秋国家安全部の友人の求めで、「普通選挙の実施と党の干渉を許さない規律委員会を全人代の中に作る以外解決方法はない」と、進言したことがあるが、実現は見込み薄です。


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