前回の(38)で唐山大地震について述べましたが、2012年5月23日投稿のブログの大部分が重複してしまいました。取り上げた角度は異なるのですが、重複には相違ないので先ずはお詫び致します。
私は1985年秋から1991年末まで、1988年一時帰国した期間を除いて北京に駐在しました。天安門事件は1989年6月3日夜から翌朝にかけて発生しました。当時の私の住居は中南海(政府首脳の居住・執務地区)の1.5㎞西方の民族飯店9階(地上階から数えるので実際は10階)の南側、即ち長安街大通りに面した部屋でした。
1、 発端は同年4月15日亡くなられた胡耀邦総書記追悼のささやかな自転車による
市内行進でした。最初に目撃したのは20人足らずでしたが、日毎に人数が増加し政治改革の旗印が出てきて、5月中旬ソ連(当時)のゴルバチョフ書記長の訪中時には100万人規模(と西側マスコミは報道、私の経験則上の目測では4-50万人)の天安門前広場での座り込みとなっていました。我々日本人は異口同音に日常付合いのある政府中堅幹部に対して、こんな違法行動は消防車等繰り出し排除すべきと進言したが、誰も耳を貸そうとしなかった(内心学生達に同情したのかも)。5月20日になると戒厳令が発令されたが、大きな変化はなかった。
2、 中南海の正門である新華門では警備の武装警官隊と学生達が、混乱もなく対峙していたが、大きな交差点等では交通警官の業務は麻痺しており、代わりに学生達が東西南北交代で手をつなぎ直し、交通整理をしていたが大変スムーズであり、学生達もなかなかやるなと思わされた。6月に入り地方の解放軍が動員されて旧市内への主要出入り口に配置されたが、何故か広場の座込み学生達排除の動きはなかった。尚、斯様な状況下でも我々の日常業務は略正常だった。日本等西側マスコミは問題点だった地域の状況を繰り返し報道した為、北京中がまるで動乱状態であるかのような印象を与えたのではないかと思う。
3、 6月3日夜10時頃より、北京西郊外より長安街大通りを解放軍が歩兵の他バス、 戦車等に分乗し延々と進軍して来た様子は電灯を消した部屋より観察し続けた。一部の歩兵等は学生達集団により棍棒で袋叩きにされる様子や、歩兵が不規則に発砲する状況も目撃、軍の最後尾が東進し切ると、学生達が再度大通りに集まり、昔日本の左翼活動家が良く歌った「インターナショナル」の大合唱を始めたのが印象的だった。
4、 翌日同じホテル宿泊の同僚と銃撃跡を検分して回ったり、他商社の連中と情報交換したりしたが、天安門前広場での死者の目撃情報はなかった。広場を数百メートル離れた幾つかの地点で多数殺害されていたとの情報が集まったが、300人未満であり実際はその倍あったとしても、西側報道の如く何千と言う規模には疑問を感じた。又後年中国当局発表の319人と言うのも過少との印象である。

2005年春や昨秋の暴徒化したデモでもそうだが、中国での治安維持行動は我々日本人には理解し難い面があるのは明らかである。違法行為はさっさと取り締まれば良いのだが、やはり法治と言うより人治であり、当局内部で異論百出してしまうと容易に結論に達せず、結果として暴動化するまで放置した挙句過激な対処になってしまうと言えよう。

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   柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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