2019年 7月の記事一覧

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19年07月30日 15時38分20秒
Posted by: yanagizawa

五台山に近づくと普通院と云う簡易宿泊所が1-3㎞毎にあり、誰でも無償で利用可能であった。840年4月22-3日頃円仁は五台山に到着し、最初の5日間は竹林寺に宿泊した後大華厳寺に移り、一か月半滞在した。その間4日間の時間をかけて、五台山との名称の基になっている周囲の五つの峰々に登頂、巡礼した。大華厳寺では、この寺院こそ天台の伝統を継承するものだと感嘆した様子を日記に記し、同時に必死になって重要書物を書写した。五台山では種々の奇跡を見聞したが、現在乾燥地帯に変化している五台山周辺が、当時は湿潤で「千年の雪が夏でも融けずに氷河となり谷を埋めていた」との目撃談も記している(5月21日)。更に当時すでに石炭が家庭料理用の燃料として広く使用されている状況を驚き、記録している。尚、山西省は今でも石炭多産地区である。

 五台山では周辺も含めて平等の精神があまねく徹底しており、老若男女、僧俗貴賎を問わず同じようにもてなされており、しばしば精進料理を振舞われ、参加者の数も時には千人にも達したと何度も記している。一種の貧民救済活動も行われていたことにもなるが、当時五台山の名声は広く行き渡り、上は皇帝から下は一般庶民まで寄進する人達は膨大な数に上っていたことも、背景にあったことは間違いなさそうである。又五台山の極楽とも言える状況は広く長く、民心をつかみ日本まで伝わり、明治3年生まれだった私の祖母の耳にも届いていたものと思われる。

 私自身、祖母から託された地上の“極楽”五台山巡礼を何時かは果たそうと思っていたが、初訪中の1965年以来30年余経てもチャンスがなかった。然し1999-2000年の一年余ODAの仕事の関係でチャンス到来、無理なく実現した。と云うのは黄土高原治山技術援助のアフターサービスの仕事に従事したが、現場は山西省の西南部の吉県(60万㎢の黄土高原全体の中では東南部に位置する)で、北京林業大学に拠点を置いて、毎月の如く一週間から10日間出張した。吉県は当時大変貧しく、米のご飯もなく一人当たり平均年収900元だった(それでも日本の援助のお陰で10年前の400元から所得倍増したと現地の人々は自慢していた。谷底まで水汲みに行っていたが、民家が比較的多い傾斜地の途中から水がしたたるところがあったが、植林のお陰で年中かなりの清水が流れ出る様になり、コンクリート製の大きな水槽を建設し電動ポンプも省の援助を得て設置、各家庭に送水できるようになった他、スモモやリンゴも育成し、大きな収入源になった由。私も食べてみたが乾燥地帯での生育でもあり大変美味しかった)。北京からの出張はほぼ毎回JICAが供与したランクルだった。900㎞もあるので、早朝出かけ夕方到着であったが、一路南下し石家庄で右折西進し、太原郊外(此処までは高速道路を走行)で左折し南下;帰路はその逆の道順となるわけだが、太原で右折せずそのまま北上すれば五台山で、時間的にも無理な迂回ではなかった。五台山が近づくと大きな「仏教聖地」とのアーチ状の看板があり、中心地帯には沢山の寺院があり、全体としてすっかり観光地化していた。短時間の立ち寄りであったこともあり左程の感激はなかったが、祖母の遺言とも言える願いを果たすことはできた。

 円仁の五台山滞在も三か月弱と左程長くはなく、次に向かったのは長安の都(現在の西安)であったが、五台山を出立して間もなく、日本では想像も出来ない程の悲惨な社会状況を目の当たりにすることとなったが、それは次回報告しましょう。


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19年07月13日 15時38分40秒
Posted by: yanagizawa

  慈覚大師円仁は目的を達成できず839-7-22出航の遣唐使一行の船に同乗させられ、帰国せざるを得ない状況に追い込まれたが、置き去りにされたとして山東省東端近くにあった赤山朝鮮僧院に留まったことは前回記したところである。  
 赤山僧院所轄の文登県庁(山東省東端より西方50㎞)から、置き去りにされた経緯など報告するよう僧院に対して7月24日に指示されたが、やり取りの後に、朝鮮僧侶等の勧めもあり、円仁は9月3日に天台山行きを断念し五台山を巡礼したい旨申請した。なかなか許可が下りぬ為、山東半島居留の朝鮮人トップの張詠に840-1-19許可取得を依頼した。2月19日に張詠宅に赴き、許可されたことを知り、やっと2月24日に文登県庁で通行証を受領した。早速翌25日通過地点の蓬莱(当時は登州と呼称、文登より西北150㎞山東半島北岸の町)目指して出発した。途中足を痛め小さな僧院に泊まったが、客僧として厚遇された。3月2日には登州に到着し開元寺に寄留した。翌3日に登州県知事を表敬訪問したが知事より米2石(現在の度量衡では260リットル)等食料品他を供与された。3月4日には法会(ほうえ)参加の為知事などが開元寺に来訪、終了後知事の官舎に招待され茶菓のもてなしを受けた。別途五台山等聖地巡礼の為の通行証を申請した。許可待ちの間に唐の15代皇帝、武宗即位の勅書下達儀式があり、その式典に参列することなった。
3月11日登州の西南西240㎞の青州節度使宛の書簡を受領し翌12日未明には出立、青州では龍興寺に寄宿した。節度副使等より歓待され、米3斗等供与され、4月1日には通行証と更に布3反等支給され、4月2日には青州門外まで見送りされた。西進し河北省東南端より少し北側の清河までの間面倒な役人への対応が不要だったと、円仁は述懐している。清河では開元寺に寄留し、役人等の歓待を受けた。清河を離れ石家庄を経由し、河北省と山西省の境界でもある龍泉の関所を通過し、天台山から来たと云う中国の僧侶より、日本の円載等が修行しているとの情報も得た。尚円仁は道中飢饉の状況を目撃したと記している。農民達は本来家畜の飼料である小豆を食していたと記しているが、これは1959-60年の自然災害と農業政策の失敗による飢饉に較べればマシであろう(この時は雑草や木の皮を食べ、犬ネコからスズメ等野鳥まで食べつくした。私の初訪中時には犬ネコだけでなくスズメやハトも見かけなかった)。
 いよいよ五台山に入るわけだが、これまで道中、各地役人の官僚主義、文書主義等形式を重視する実態に何度も遭遇し、あまり時間的な感覚がないことを円仁は体験させられた。これは反面から見れば、唐代も末期に近づいてはいたが、まだ行政が機能していたとも言える。通行証を入手するのにも苦労しているが、これは何もこの時代だけでなく、現在中国に駐在されている方々は多分ほとんど未経験だと思われるが、鄧小平の改革開放の大号令が出るまでは、我々駐在員は地方出張の際には、身元引受機関の同意書を添えて、その都度旅行証を申請し取得せねばならなかった。私の経験上日帰りの客先訪問にも旅行証が必要だったことがあります。北京で万里の長城観光は昔から旅行証が不要だったが、長城のある八達嶺のずっと手前(山間部に入る手前)に鉄道車両などの機構部品を生産するユーザー工場があった。場所は南口、長城行きの道路から途中で西進すると、検問所があった訳です。一方中国滞在中は円仁同様、何処でも今よりも優遇、歓待されました。
幼少時私を親代わりに育ててくれた祖母が生前、「日本の西には唐と云う国があり、ずっと西に行くと地上の極楽があるから、大きくなったら行ってみなさい」と言っていた五台山に、もうすぐ到着です。


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