2019年 6月の記事一覧
長江河口の北方に到着した後、円仁は揚州に行き遣唐使一行に合流したが、揚州に就いて若干紹介しよう。揚州は上海の上流250㎞、南京下流100㎞の長江北岸にあり、古代より交通と物資流通の重要な拠点であり、特に専売物資だった塩が大量に集配された。又漂流、失明、妨害と言う幾多の困難を乗り越え、渡来された鑑真和上(688-763)の出身地でもある。当時僧侶になる資格(戒律)を正しく認定する規定が日本にはなく、聖武天皇が指導、認定者(授戒者)たるべき人物を探し求めている旨、入唐僧から聞き周囲の反対を押して来日を決意された(西暦742年)。743年から日本への渡航を試みて、5回失敗、754-1-9 やっと屋久島に到着、奈良には754-3-1に到着した。聖武上皇に歓待され、娘である孝謙天皇の勅により東大寺に住み、戒壇を設立、授戒を始め、唐招提寺を創建、貧民救済の為に悲田院も作ったが、弟子の創作である鑑真坐像は日本最古の塑像としても有名である。尚鑑真の修行された大明寺は今も揚州にある由。揚州は日本とも縁の深い土地柄である。
円仁が目的地としていたのは師匠でもある最澄も学んだ天台山(浙江省杭州東南230㎞)に行くことであり、地方官(節度使)を通じ長安からの許可を待っていたが、838-9-13に不可との回答があったことを数日後知った。中国側より揚州の開元寺に移され再度要請していたが、大使一行は10月5日には長安に出発した。それに先立ち旅費として大使より滞在費として砂金10両(500g)を渡された。以前から入唐者の旅費は砂金で持参、更には後発者に託送された。但し円仁は日本の僧侶として、各地で歓待され宿泊費含めて旅費を自分で出すことは稀であった。尚大使一行270人が長安に到着したのは59日間も要し、12月3日だった(通常は2週間程度)。又皇帝への拝謁は大使等二名のみで839-1-13になったが、唐の正史には同年、「日本人により再び貢物あり」と記されたのみであった。順位もタイ国の次であり、形式だけであるが、中国式冠位が授与された由、冊法体制誇示する意図だったと見られる。
遣唐使一行は839-2-12に長安から戻り、揚州北方の大運河の交通拠点、楚州に到着、円仁や円載等全ての日本人は大使から揚州から楚州に呼ばれ、同名の開元寺に泊まった。
帰国止むなしと観念していた円仁に中国僧、敬文が天台山より来訪し矢張り天台山に行くべきと勧めた。彼は円仁の師匠である最澄に805年に会った時のことを縷々伝えた。山東省に拠点を置く朝鮮人通訳、金正南が特別な便宜を計ると言うので、過分な金子(砂金)等与えて、円載共々帰国せず留まることを決意した。大使は仏法の為なら反対はしないが、若し唐の役人に知れたら勅命に背いたことになるので、よくよく考えよと警告した。
3月19日地方官(楚州の長官である刺史)の告別宴があったが大使のみは、格が違うとして欠席した。3日後日本人一行は船上の人となった。円仁も一応第2船の人となった。
再三船は吹き戻され、本船が離岸したのは5月21日、円仁の乗船した船は青島に漂着、これ幸いと上陸したが官憲に捕まり、船に戻され更に離岸したが北に流され、山東半島東端近くに漂着、その後も再三吹き戻されたが7月22日に日本に向かって出立した。
大使一行は赤山を出て3週間後の8月14日に九州北部に帰着、一方円仁等三人の日本人は赤山朝鮮僧院に置き去りにされたとして、唐の地方官により調査されることになった。
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慈覚大師円仁は空海や最澄同様遣唐使に随行する方法で唐に渡った。西暦838年6月13日に今の福岡県博多湾入り口にある志賀島出航したが、航行は難儀を極め揚子江(長江)入り口の北岸北方50㎞にある掘港鎮(現在の江蘇省如東市)に漂着した。
847年9月17日に博多に到着する迄9年3ヶ月も要したが、これは彼が目論んだものではなく、船待ち、乗船の難破、中国国内旅行の許可待ち等思わぬ出来事が重なり、こんなに長期間の旅行となった。結果として、彼の生真面目さと日記の記録により、仏典の集録伝来にとどまらず、マルコポーロの「東方見聞録」以上の歴史的な旅行記としての功績を残したと言えよう。マルコポーロはアジア諸国を放浪し、中国だけでも17年間滞在しフビライにも面会したと言われるが、彼の記録には誇張があったり単なるうわさ話だったりした内容も多い。例えば日本の家屋の屋根は黄金で出来ているとの記述もあった。彼の中国滞在期間にフビライは日本への遠征軍を送り文永弘安の役(1274年及び1281年)を起こしているので、日本に関する情報やうわさ話も多かったと推察される。又この頃既に岩手県平泉にある中尊寺の金堂は創られれて百年位経っているので、当然日本に関する情報として伝わっていたものと思われる。
話を円仁に戻すと、遣唐使を含めて中国大陸との往来には朝鮮半島南岸及び西岸を経由した方がより安全なことは自明であったが、この頃は日本と半島全体を支配していた新羅との関係は良くなかった。白村江の戦いでは百済を救援しようとした日本と戦った関係もあり、その後高句麗を滅ぼして半島統一国家新羅としたが、高句麗から北方に逃げた朝鮮人がツングース族と共に建国した渤海国と日本は関係良好で往来も活発だったことも関係あったかも知れない。更に言えば反乱、分裂がしばしばある朝鮮半島の人々から見れば、何があろうと天皇を中心として統一を保持している日本は、気味悪い存在であったかも知れない。現代でも日本の天皇を日本国王と呼ぶ世界で唯一の国が韓国であることにも表れている。
円仁は838年6月に日本を出航したが、実はこれは三回目の挑戦であった。一回目は836年5月12日に難波を出航し、同年8月17日に博多を離れたが、4隻からなる船団の中、第1船と第4船が台風に遭遇し、九州に吹き戻された。その後第2船も同様だった。第3船も難破し16人が筏(いかだ)で対馬に漂着、後日対馬に漂着した本船での生存者は3人のみだった。二回目の挑戦は翌837年早目に難波を出航したが、博多を離れた船団の中第一、第四船は壱岐に流され、第二船は五島列島に漂着との悲報が8月26日京都に届き、又もや遣唐使船団の出航は失敗に終わった。
第三回目円仁は第1船に乗船し、838年6月13日より記録し始めたが、風は順風で六日目には海の水が黄色の海岸近くに漂着したが、船は傾き破損し波をかぶってしまった。遣唐大使と関係者は小舟で上陸し、残留した円仁等30余人は波をかぶり続ける船上で翻弄され、まる二日間生きた心地がしなかったが、7月2日になって中国側から救命ボートが来て助けられた。第4船も遠くない海岸に漂着したが、揚州滞在の遣唐大使に合流したのは2か月後だった。