2018年 8月の記事一覧
中国の国営企業は国(省庁)の直轄経営と思い込んでいる向きもあろうかと思うが、そのような企業は大企業に限られ、規模に応じて第一級地方(省、自治区、直轄市)、一般的市や県級レベル、更に町村レベルの管理運営となっている。昔は街角のライター販売修理、ガス補充のスタンドにまで国営との看板があり、聞いてみると横丁経営管理とのことだった。要するに国営とは公営企業と理解するのが至当であろう。
1、 以前存在した人民公社も市町村経営で、農作業や食事も共同であった。文革中の1967年の夏に北京市南郊外の黄土崗人民公社を我々若い日本人“紅衛兵”として農作業を手伝いに行ったことがあるが、みんな不慣れな仕事の為、農産物を痛めてしまい、一時間ほどで「もう結構です」と言われたことがある。「お湯を飲んで下さい」と言われ、不ぞろいの茶碗に白湯を出された。彼等の自慢は「毛主席のお陰で時計、ラジオ、自転車の三種の神機を持っている」とのことだった。同年秋の広州交易会(大きな展示場が併設され世界中から累計一万人ほどの商人が集まり、9-10月の一か月間で各種の取引があった)に参加した時は広州西方の大歴人民公社と北方郊外の東方人民公社を見学したが、前者は貧しく公社所有のトラックは2台のみ、一方後者は50台も所有しているとのことだった。どちらも農作業は共同作業であり、食事も共同とのことであったが、我々もご馳走になった。意外にも食事内容は豊富なものだった(特別に用意したかも!?)。只物珍しそうに集まって来た子供たちはみんな裸足で、継ぎはぎだらけのぼろ服を着ており、終戦直後の我々日本の子供達と同じだな!と心中同情に堪えなかった。要するに人民公社は基本的に集団生活、共同作業でとのことで実際は効率が悪かった。劉少奇の自留地容認により急速に農村経営が豊かになったことが何よりの証拠だった。
2. 元来中国人は個人主義的傾向、むしろ利己主義に近いと見た方が良い。スポーツの世界でも個人競技では日本以上の成績を出すが、チーププレイを必要とする競技では、国家的に日本の何倍もの援助育成体制を敷いているにも拘わらず、中々良い成績が残せない。それだけに止まらず普及もしない。昨夜(8月23日)アジア大会の競泳女子400mメドレーリレーで、引継ぎに失敗し(韓国も)失格となってしまったこと等、象徴的な出来事であろう。又野球を普及させる目的もあって中国でのオリンピック開催時、北京に立派な野球場を建設したが、その後ほとんど利用されず朽ち果てているとのニュースがあったが、むべなるかなと思わされる。以前良く中国人から「昔中国の至るところが日本により支配されたが、本来一対一なら中国人は日本人に負けないが、二対二だとあやしい、三対三以上では必ず負けるよ!」と聞かされたものである。喜んでもいられないのは、逆に日本人は周囲ばかり気にして自己主張があまりなく、何を考えているのか分からないとの国際的マイナス評価があることにも留意が必要であろう。
3.中国と北朝鮮の共通点はどちらも独裁国家であることだ。然し中国は共産党一党独裁であるが対外開放政策を推進していること(以前報告したが、鄧小平は独裁体制ながら資源もなく小さい領域しか持たない韓国、台湾、シンガポール、香港が経済発展した様子を小龍と称え、「四つの小龍に学べ」運動を展開した程であった)に対し、北朝鮮は封建時代さながらに、一族独裁体制であり地方自治体や個人の自由度は日本の江戸時代にも及ばないであろう。とりあえず中国程度の改革開放政策に踏み切れるか注目したい。
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国連決議を無視して、公海上で第三国の船舶を利用して石油等を入手する「瀬取り」が北朝鮮により再三行われているが、前回予告した如く北朝鮮の経済状態が凋落しつつあるのは間違いなさそうである。遠からず常識外れの政策が北朝鮮内部で実施されるであろう。それは既に中国が以前経験した政策と類似したものになるのではなかろうか?
1、 厳命を受けるだけで財政的支援も殆どない地方企業の採る道は、非常識なものになるであろう。此処で留意すべきは地方企業の実質的責任は、党の地方組織であることも念頭に置く必要がある。1958年頃中国では大躍進政策と称して15年以内に経済規模でイギリスを超えることを目標としていた。そのような中で人民公社化を進め、米作では「密植(田んぼの稲の間隔を極度に密着さす)」を推進し、稲穂の上に子供を乗せても倒れない程(写真も公開)で、こうすれば同じ面積で何倍もの収穫が得られると言うものだったが、後日収穫前に夜間に紛れて植え替えたものと判明した。又鉄鋼の大増産を「土法高炉」(町村規模の人民公社に全国規模で炭焼き窯まがいの溶解炉を作らせた)により達成しようとしたが、原料の鉄鉱石も燃料の石炭も不足し、各家庭から鍋釜迄供出させられ、粗悪な銑鉄を作り出すと言う、本末転倒の事態になってしまった。1990年代末にJICAの森林を増加させる技術援助の管理面の仕事をしていた時、中国の林業関係者より中国の森林覆蓋率が極度に低い(当時国土の14%程度、日本はずっと66%前後)のは、二大悪人が居たからだと聞かされた。一人は秦の始皇帝で、万里の長城や軍用道路建設の為、大量のレンガを焼く為に森林を伐採した。もう一人は毛沢東で土法高炉を全国で建設させ、至るところで林木を伐採し燃料にしたと聞かされた。
2、 斯様な異常な事態は各方面で発生し、自然災害と相まって食糧不足となり、2-3000万の人々が餓死、さすがの毛沢東も政治責任を取らざるを得ず、国家主席を劉少奇に譲ることとなった(1959年4月)。劉少奇は各農家に自留地(自作容認の土地)を与える等、調整策を講じて年毎に農村は豊かになったが、私の初訪中の1965年でも猫や犬が何処にも居らず、スズメやハト,カラスも殆ど見かけず、聞くと大躍進政策による食糧難時代に野草を食べると共にこれ等は、ほとんど捕獲し食べ尽くしてしまったと聞かされた。
3、1966年になると毛沢東の巻き返しがあり、文化大革命の名の下に、学生など若者を動員して実権派と称された劉少奇や鄧小平追い落とし運動が始まり10年も続いた。当時「農村は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」と盛んに叫ばれた。大寨は山西省中東部昔陽県にある山がちの農村、大慶は黒竜江省のハルピンとチチハルの中間にある油田都市である。外国からの援助、協力もない自力更生のモデル地区とされていた。これ等は参観したことないが、第二の大寨と言われた沙石峪(天津の北北東160㎞)には1967年5月に参観したことがある。天津で日本科学機器展覧会を開催していた時、乳白色の陶器で有名だった唐山(9年後の1976年に大地震があった)に列車で行き焼き物工場など参観、招待所に宿泊し翌朝バスで北方60㎞にある、荒れた台地の中にあった沙石峪生産大隊を見学した。石ころが沢山散在している地勢の中にあったが、生産大隊の中の石ころはほとんど拾い上げで法面(のりめん、道路の側面を含め耕地の端面の傾斜地)補強に利用され、桃やスモモ、リンゴなど果物も生産している豊かになった農村だった。
問題は文字通りの自力更生ではなく、共産党支部の采配下解放軍や“ボランティア”による援助協力(夜間密かに実行と言う者もいた)によるものだったと後日判明し大問題となった。
この項、以上では説明不足なので、次回更に補充しましょう。
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