2017年 12月の記事一覧
1970年代初頭の北朝鮮は、工業面では韓国より勝るが地勢や気候面で農業は劣勢にあるが、飢餓に苦しむ庶民が発生するなどとは信じられなかった。工業面での優勢は戦前日本の投資したものが物的、人的に残っていたことも大きな原因であった。当時軍事面ではアメリカの支援のある韓国が優勢にあると見られており、北朝鮮の実態は防御的であると見られていた。
1、 ある時土日を利用して板門店参観が手配され、一泊二日のバス旅行となった。ピョンヤン郊外の路上で道路工事の様子を見て驚いた。十人近い作業者が手作業で仕事をしているが、その近くで5-6人がアコーデオン等簡単な楽器で軽快な音楽を演奏していた。日本人にとっては奇妙な様子に見えたので、少々バスを停車して貰い、その様子を見ると共に案内人に、演奏している連中も作業に加わった方が、工事は速く進むのではないかと、質したところ、「いや、応援団付きの方が効率が良いのだ」との説明があったが、今もって不可解な気がしている。
2、 更に畑の中や荒れ地らしきところに沢山の高射砲が設置されており、砲身が10m近くはありそうに見えたが、どう見ても安定性に欠け、襲撃してくる敵機目がけて発射しても上下に振れて、とても命中しそうにはないと素人目にも思えた。途中開城に一泊したが、以前から取引があり、案内人とも親しい関係にある商社の人達は、ドルショップで買って持参したワイン等を振舞ったので、彼達はご機嫌であった。
3、 板門店では高台にある“招待所”に通され、軍事休戦ラインを見下ろすような状況で見物したが、予想通りの説明があり、日本語版のパンフレットを配布された。その小冊子は今も保存している写真集で、米軍が再三に亘り軍事休戦ラインを犯したが、その都度北朝鮮軍に撃退、又は捕らえられたとか、北側は如何に豊かに発展しているかと言うのを紹介したものである。
4、 別の休日に博物館見学が手配された。古代からの展示であるが、主要部分は朝鮮戦争に関する展示であったが、100万人とも言われる中国からの義勇軍の参戦やソ連からの膨大な兵器の援助があったにも関わらず、全て自力で戦ったことになっており、説明員に事実と異なるのではないかと質問すると、「別に問題ありません。中国人やソ連人の参観がある時には、必要な展示物を展示できるように常時準備されています」と淡々と説明されたのには驚いた。又別の日曜日、地下宮殿と自慢する地下鉄見学に行くので、ホテルロビーに午前8時に集まるよう連絡があったので、その通り皆で集まったが、何時まで経っても案内人が来ず、みんなイライラしていると、9時ごろになって「ああ、地下鉄見学は中止になったよ!じゃあね~!」とのこと。怒り心頭ではあったが、こんなことは良くあることだよとの先輩諸氏の説明で止む無く自室に引き上げた次第。
5、 サーカスも見せられたが、7割は何処の国でもやるのと同じようなものだが、その他は一見強そうに見える米軍だが、北朝鮮軍によりコテンパにやっつけられ様子を面白可笑しく演技しており、観衆の笑いを誘う出し物となっていた。中国の映画やテレビドラマに出て来る旧日本軍(昔は国民党軍だった)と同じような演出であり、事実であるかどうかよりは独裁体制維持のための道具となっていることを示していた。
6、 以上の如き状況下にあって、大変感心することがあった。それはホテルの廊下ですれ違う女性スタッフのマナーであった。即座に脇に身を寄せ立ち止まり、軽く会釈して客を通してから又歩き出す姿だった。男勝りの女性が多かった中国とは大違いで忘れ難い記憶となった。
ミサイルや核開発面では大きな発展を遂げた近頃だが、国家財政面では極度の偏重を来しているのは間違いなく、一般大衆の福祉面へのしわ寄せがひどそうである。
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今後中国問題のみではなく、枠を広げて参考になりそうな事項を紹介していきたい。
先ずはミサイルや核実験で物議をかもしている北朝鮮への訪問記。
実は北京に長期滞在していた時、突然社命により北朝鮮に行くことになった。随分昔の1972年11-12月の一か月半だった。当時の北朝鮮は現在ほどの悪評はなく、拉致問題が生まれる等とは信じられなかった。1959年頃より戦前からの在日朝鮮人達の中で“地上の楽園”と化した祖国に帰ろうとの運動が起き、60年代初頭迄に8万人以上が帰還、その後急速に人数が減ったとは言え1984年までに93,340人が帰還したと言われる。1970年頃には地上の楽園ではないが、韓国よりは豊かであると見られていた。そんな状況下であったが、細々と日朝貿易が行われ、年間3000万ドルを目標にしようと、日朝貿易業界で叫ばれた。以上のような背景の中で;
1、 北京に長期出張していて、そろそろ帰国しようかなと思っていた私に急遽ピョンヤンに行けとの社命が下った。「北朝鮮当局から17の商社を招待して商談をしたいとの連絡が、業界団体にあったが、その中に我が社も含まれている。断ると将来に悪影響が出る恐れもあるし、本社から人を出す程でもないので、君が横滑りで行け」との趣旨だった。
2、 当時のパスポートには「北朝鮮は適用外」とスタンプが押されており、北京飯店内に開設されたばかりの仮設日本大使館に相談に行ったところ、妙案が提示された。「本来パスポートの二重発行は違法ではあるが、この場合は止む得ないので、一次パスポートを発行しよう。北京を離れるときは現有パスポートを使用し、ピョンヤン入出国には新しいパスポートを使いなさい。絶対に間違わないように!」と釘を刺された。
3、 北京空港食堂で他社の代表たちと落合い盃を交わし、空路ピョンヤンに向かった。空港施設は北京同様極めて貧弱であったが、市内に近づくと当時中国にはない2-30階建ての高層アパートが林立し、又建設中のも多かった。宿舎は新しい23階建ての普通江ホテルで同名の公園内にあり、公園内は自由に歩けるが公園から出ようとすると、必ず“案内人”がついて来た。街には反日分子が居ないとも限らず、安全の為だとのことだった。公園内を散歩中の中国からのビジネスマン達にもで会ったが、彼等も勝手には公園外には出られないとのことだった。東京や北京との国際電話はホテルの各フロアーにあるサービスカウンターでしか話せなかった。理由としては時々通話が中断することがあり、通話時間(即ち料金)の計算でのトラブルを防ぐ為として、“案内人”が近くに座り傍聴していた。当時の業務用通信手段であるテレックスはホテル一階フロアーの片隅にあり、担当者が同業者達の目の前で受取人毎に切り取り渡してくれた。
4、 商談は中国人程厳しくなく、北京から持参したカタログ等で宣伝し、一億円余の機械設備の輸出契約は出来たが、契約書フォームも準備されてなく、やむなくA4の白紙に私が手書きで作ったほどである。然し後日北朝鮮から開設された信用状(L/C)は信用がならず無効と判定され焦げ付きとなり、業界全体としても大問題となった。
5、 街中で見かける女性は殆ど、スカート姿で男性は背広にネクタイで、当時中国では男女共に人民服(作業服の如し、然し清潔)だったので、中国よりは豊との印象を与えたが近くで見ると何か月も洗濯してない様だった。ドルショップには輸入品含め品数も豊富だったが、街中の商店は数も少なく、生鮮食品は乏しかった。ホテル食堂のご飯はコシヒカリの如く美味であったが焼肉は皿盛で冷たくなっておりがっかりだったが、シンセン鍋だけは良かった。北国に関わらず韓国より豊かだと、当時の北朝鮮の人達は自慢していた。
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