2017年 3月の記事一覧
1. 銘湖スキー場:瀋陽に通じる高速道路を約100㎞北上し、瓦房店の炮台鎮出口を出ると1㎞弱で到着。雪が少ないので人工雪だが、送迎のバス代、昼食代、貸しスキー代等含め日本円で5,000円弱だった。コースは1㎞近い上級者用(高低差100m以上)、300m弱の中級者用、200mの初級者用の3コースがあり、40年振りに滑ったが温泉もあり大いに楽しめた。
2. 遼南の小桂林とも称される氷峪溝渡假区(氷峪観光リゾート区)には三回行ったが、夏場には日帰りでも一泊でも良い。遼東半島の東側を丹東方向に半分強、200㎞程度走り庄河市郊外より内陸の山間に入ると、三段階に分かれたダムがあり、最上部は曲がりくねった湖となっており、乗船を楽しむ、途中には両岸高所より渡されたロープを利用の曲芸も見られる。但し半ば個人経営のぼったくり屋も居るので、要注意。乗馬の折には往復で幾らか聞くこと(でないと帰りは倍の料金にされる)。三回とも日帰りで行ったが高齢者にはややきつそう。
3. 寺社巡りが好きな方:大連から旅順にタクシーで行った時、壮大な横山寺に立ち寄った。2004年に修復したばかりで、壮麗であった。開発区にある大黒山は海抜660m余りで、その東側中腹の参道の石段を750段ほど登ると、洞窟寺(正式名称失念した)がある。若い工場労働者のピクニックとして最適と思う。更に大黒山の西側の道路より谷底に下りていくようなところに朝陽寺がある。除夜の鐘を衝かせて貰おうとしたが、衝けるのは坊さんのみとの事だった。
4. その他、山頂にUFOの如き展望台があり、寺はないのに梵鐘が駐車場脇にある童牛嶺や南側に下りた海浜路の山側壁面にある原寸大の恐竜のレリーフ、海水浴場でもある白石湾浴場沿いにあるおとぎ話の中の各種大きな塑像等はお子さん達に好適でしょう。30㎞も東方になるが、金石灘ならハワイのワイキキにも劣らぬ風光明媚な海水浴場や発現(見)王国がある。大連旧市街の南山地区は昔の日本人租界地区であり、現在一般に開放されている棒棰島(元々政府首脳の避暑地)、野鳥の森に入れる鳥語林、西欧の古城を思わせる貝殻博物館等大連には沢山の見どころがある。
5.大連開発区には、ウォルマートのスーパーやマイカルのデパート、高級品専門の友諠商店があり、ホテル名にもビクトリア(維多利亜)ホテル、ドナウ(多脳河)ホテル、ウィーン(維也納)ホテル等洋風名称が沢山あった。2005年居住した上海の古北新区にもパリ(巴黎)、リヨン(里昴)、ローマ(羅馬)、アテネ(雅典)、マルセイユ(馬賽)、ロッテルダム(鹿特丹)等を冠したホテルやマンションが沢山あったが、日本人同様西欧の地名好きな人達が多い証左であろう。ナショナリストには批判されそうである。
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上海は進出工場の立ち上げ協力であったので、2005年前半の半年のみの滞在であった。当然帰国する積りでいたが、一年前まで勤務した寧夏の工場で管理担当の日本人が予定より早く帰国してしまったので、次期派遣者との引継ぎもなく困っているので、現地での仕事要領について伝授して欲しいとの要請を受け一か月余のみだったが、寧夏回族自治区の最北端の石嘴山市に足を延ばした。特段目新しいことはなかったが、上海勤務直後であったので、此処が同じ中国かとの印象を改めて強く感じた。風俗習慣も異なり大変貧しい地域と改めて実感した次第である。
1. 夏の終わり前に帰国したが、翌2006年8月には日本の居住地である埼玉県の企業の進出先である大連開発区の工場で管理面の仕事に従事することになった。一年契約であったが結局三年勤務し、これが私の中国での最後の仕事となった。2009年8月の71歳の誕生日を大連で迎え、直後に帰国した。最後の勤務と腹をくくり現地で購入した生活物資などは、ほとんど 帰国前に現地社員に分配しさっぱりした。
2.大連は中国東北地方(戦前満州国もあった地区)の玄関口とも言えるところだが、千葉県の房総半島を大きくした様な地勢であり、三方が海に囲まれ冬でも気候温暖で、商社員として北京駐在時代に何度も出張した瀋陽やハルピンとはまるで異なっていた。大連は商社時代には殆ど縁がなく、1992年9月日本の商工界の瀋陽及び大連の開発区視察団に参加してざっと見ただけであった。瀋陽の鉄西地区などはかなり整備され進出企業も多かったが、大連の開発区は区割りは終わっていたが、道路も舗装されておらず、当時進出企業はTDK,マブチモーター、東芝等数社のみだったが、14年後の開発区は別天地の如きだった。インフラ整備が進み荒地は見当たらず、開発区居住外国人の数でも日本人と韓国人が1-2を争っていると言われていた。
3.大連の概況についてはネット検索すれば相当詳しく理解できるが、私自身の現地での見聞及び体験に関連する状況を中心に報告したい。勤務地は開発区の東端の金石灘(きんせきたん)にあった。此処は海岸が明媚であり国家観光特別地区に指定されているだけあって、ハワイのワイキキにも劣らぬ美しい地域で、発見王国と言う大型遊園地やモデル学校、乗馬場などもあり空気も清浄であった。一年余後に少し西側に寄った董家溝と言う大連の民間の開発業者造成の企業誘致地区(それでも開発区の中心地区より10km程度東側)に新工場を建設移転した。生活の場は3年間蓓佛莉荘園(ビバリーヒル)と言う外国人用高級住宅地(殆ど日本人だが)の近くにあった一般のアパートに住んだ。此処は元は中国の東北電力幹部用アパートで、住民の大部分は中国人であったが、3DKで各部屋は広々としていて、大連では中の上クラスと思われた。南方1km先は海で、その手前に海浜公園と言う通路がアンツーカーとなっているスポーツ公園があり、通路一周は1kmでアパートから走り出し、公園内一周して戻ると、ほぼ3kmで恰好のジョギングコースで3年間利用させてもらった。この公園の西側には日本の業者の調査と鑿井による温泉があり、経営は中国人だが完全な日本の都市型温泉浴場となっていた。
大連在住の皆さんにも参考になることを含め、次回もう少し具体的に紹介致しましょう。
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前回、日本の国としての中国への援助プロジェクトの現地拠点での勤務時の体験や見聞を紹介
しましたが、読み直してみると簡略過ぎたと思われるので、若干補足しましょう。
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戦前の日本の侵略による被害に対する賠償を、1972年の国交正常化時の交渉で、中国は辞退したので、日本は国として大々的且つ継続的に援助してきたが、総額3兆円を超える大規模なものでした。主要なものは空港、港湾、橋梁、高速道路、工場建設などでした。技術援助等はJICA(ジャイカ)が担当したものですが、古代文化では中国は日本の父母の如き存在だったとの強い自負心が、日本からの援助は「欲しいが、恥ずかしい」との思いを引き起こし、広報面では強い抵抗感になっていた。それが前回紹介した広報塔建設に難渋した原因である。
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1997年に改訂されたばかりの、中国の森林法全文を日本語に翻訳したことがあるが、業者と伐採など許認可する権限のある地方行政機関を厳しく取り締まる為、監督機関を設け、更にその監督機関を監視する制度まで作り、罰則も2倍、3倍の植林を義務付ける等大変厳しい内容に驚いたが、必ずしも順守されていない状況でした。例えば1999年に黄土高原のプロジェクトで勤務していた時、車で現地に到着する数時間前に同乗していた同僚の北京林業大学教授が、樹木のほとんどないある山すそを指さし、「10年前に植林したところだが切られた!中小炭鉱が坑道を支える油圧支柱は高くて買えないので、代用する為に切ったのに間違いない。10年位の木は太さとその弾力性から代用になるからだ。」と嘆いていたことがある。
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前回「分洪政策」について記したが、日本では想像することもできない“大の虫を生かすため小の虫を犠牲にする”政策である。人口一千万近い武漢市を守る為、長江上流での降雨が多く武漢市内が洪水に見舞われそうになったら、上流の所定の堤防を故意に決壊させ、広大な農村地帯に分流し、後日補償するとのことだったが、残念ながらその詳細は不詳だった。
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日本の援助で植林した黄土高原は高原全体の東南部に位置する地帯であったが、全くのはげ山と言うことではなく、土地の大部分は傾斜地となっている。そこで僅かな降雨があった時には、樹木の根元に水が流れ込むように、4-5mの漏斗状に土を盛り上げ畝(うね)にしている。更に傾斜がゆるやかなところでは、漏斗の直径10数mから2-30m程度の土地を畝で囲い、一番低い場所の地下にコンクリートで貯水庫(水窖、スイコウ)を作り、溜まった水は生活用水とする他、果樹園や農地にホースで運び点滴式で注水する訳です。こうした農地の作物は良く育っていたが、特別な注水をしなかったところは、見るからに貧弱な生育状況でした。
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前回1,200Ha(3x4km)の植林の結果、崖から滴り落ちる水が、清水の流れになっていたと記したが、その崖の下には10x6-7m程度の貯水庫を作り、電動ポンプも設置し、山の傾斜地に点在する民家に送水していた。これらの費用は土地の人達も出したが、地方自治体である 山西省や吉県からもかなりの援助があったとのこと。尚、吉県は人口10万人だが、財政の8割以上は国や省からの交付金で賄われている貧困地帯だった(1,999年時点で)。
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日本から吉県への援助は、植林の他に治山治水事業を効果的に実施する為、一番大きい谷川には貯水ダムも作られ、その他の谷川数か所には流水の変化を調べる観測堰もあったが、多くは損壊していた。護岸工事がいい加減で、セメントが薄皮饅頭の如く貼られていたところが多かった。その為修復工事では、完成後誰にでも出来る打音テストにより耐久性を確かめ、不十分な所はやり直しをさせた。
この吉県の西方を流れる黄河には、五十元札の図案にもなった壺口の滝がある。尚黄河の水量は長江の十分の一もなかった。黄土高原や湖北省には中国人でもあまり知らない所も多いので、次回更に補足しましょう。
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(注)何故か部分的に文字が大きくなり、どうしても修正できずご容赦下さい。日本では「夫婦ケンカはイヌも食わない」と言われる様に、誰も興味を示さないし、示してはいけないつまらない事柄であり、なまじどちらかの肩を持つようなことを言うと後で恨まれるのがオチであるとの意味合いと、他人に知られるのは恥ずかしいとの「恥の文化」を示しているでしょう。
一方今でこそ中国でも核家族化が進んでいるが、以前は夫々が大声を上げて相手を非難し、家族のみならず隣近所や場合により通りすがりの人にまでいずれが正しいか賛同を得ようとするとのことでした。幼児教育の基本が明確に自己主張をする様に躾けるのと併せ考えると、正に国民性になっている様に思われます。
他国との紛争や利害反する問題があると、中国外交部報道官のみならず中国の政治家は日本人の感覚では眉をひそめるような表現で以て、自己主張をしたり、相手国を非難したりするのも、斯様な国民性に根ざしていると思えば理解し易いでしょう。不幸な出来事があると身内や友人は人目をはばからず大声を上げて泣きじゃくりますが、この様な情況は日本では殆んどないでしょう。
日本では感情をむき出しにするのは、恥ずかしい事と言うのが国民性になっているからでしょう。日本の伝統的スポーツであり、神事でもある相撲では勝負に勝ってもガッツポーズはご法度になっているのも同様ではないでしょうか?
この様な国民性の違いはどうして生まれたのでしょうか?武士道精神の表れだと言う人もいますが、私はもっと古くからの民族性に由来すると確信しています。以前にも触れたことがありますが、やはり土地柄が人柄や民族性を育んできたと思います。四方八方が海に囲まれ、地震や台風等自然災害の多い日本では、相互に助け合い気遣いあう「思い遣り精神」と直ちに立ち上がると言う「勤労精神」が太古の昔から培われてきたと思われます。この様な日本精神に反すると、村八分になる訳です。「村八分」については何人かの中国人に話し、反応を見ましたが「頭では理解できても、感覚的には理解できない」様でした。やはり国は「無限に広がる天下なり」と民族抗争の中で4-5000年の歴史を生きてきた中国人と日本人の民族性の違いになったのではないでしょうか?
以上の如き民族性に関しては、韓国人は日本人よりも中国人に類似しているようです。最近韓国で長年学び、仕事をし、生活した方の書を読みましたが、その他の風俗習慣を含めて中韓両国の人々の類似点の多さに今更ながら強く印象付けられました。現在の吉林省や遼寧省の大部分は古代には高句麗であり、半島の人々の祖先の居住地でもあり確たる国境線もありませんでした。
更に慈覚大使円仁の「入唐求法巡礼行記」(AC838-847中国各地を旅し滞在)を読むと、山東省東部には沢山の新羅人が居留し、商売をしていたと記録しています。
民族抗争、国家間の抗争が続く時代はより中国的であり、世界は狭く抗争をしている時代ではないとの意識が広がれば、より日本的に変化するとも言えるのではなかろうか?
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柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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1996年初林業関係専門家(前林業関係公務員)3名と共に、私は北京経由で湖北省武漢市に赴いた。国の発展途上国援助(ODA)機関であるJICAにより、派遣されその後3年間、湖北省林木育種センターを武漢に設立し、そこを拠点として活動することとなった。JICAの活動は大別すると技術援助、物的援助、緊急援助、青年海外協力隊員の派遣、金融面の援助の五分野になるが、私は技術援助での現地管理面を担当することとなった。現地調達(購入)や通訳の仕事も担当したが、我々派遣員は現地側より一律専門家と呼ばれた。
半ばボランティア活動で湖北省の辺地で活動していた青年海外協力隊員や武漢に駐在していた民間の日系企業関係者とも一定の交流があった。1999年末に一旦帰国し、急いで準備し4月には北京林業大学に拠点のあった同じく技術援助であった黄土高原治山治水訓練センターのアフターケア(8年前実施終了した事業)の為、単身赴任し現場である山西省吉県(北京より900㎞西南方向)に、翌年4月まで毎月のように出張した。以上の活動の中から貴重な経験等を紹介したい。
① 1996年時点で中国全土の森林占有率は14%余だったのが、20年後の現在は20%余にまで拡大したとのことである。中国の国土は日本の25倍故、日本国土面積の1.5倍分の森林が増加したことになり、精鋭樹木の種子や苗木を集めて増殖させ(遺伝子培養を含む)供給する
林木育種センターも相当の貢献をしたことになる(尚日本の森林占有率は66%前後で推移)。
② 1998年夏未曽有の大雨が続き中国各地で洪水被害が出たが、海から900㎞長江を遡った地点の武漢は海抜わずかに25-6mであるにも関わらず、大きな被害はなかった。水位が29mを越えそうになったら、武漢上流の堤防を故意に決壊させ、長江の水を広大な農村地帯に流し武漢を守る「分洪政策」を実施しているとのこと。勿論農村地帯には一定の補償はする由だが、洪水が治まった後、決壊した堤防の修復には、先ず廃車となったトラクターやトラックの残骸をどんどん投入しているのをテレビニュースで見て驚いた次第。
③ この育種センターを宣伝し、寄り合い所帯のセンター員の結束を強めるために、作曲の好きな同僚と相談し、私が作詞しセンター歌(中心歌)を作り、折々に歌ったが、最近訪問し聴取したところ、今では歌われなくなったとのこと。日本人が作った歌は、日本人が居なくなれば歌わなくなってしまう、残念な現実を耳にした次第。
④ 黄土高原と言うと、広大且つ平坦な高原を想像されるかも知れないが、実際は饅頭形、駱駝のコブ形、馬の背形の三種類に分かれ、平坦な頂点はテニスコートから、大きくても学校の校庭を7-8枚並べた程度で、あたかも複雑な山岳地帯の山頂平坦部と言ったところである。谷川が沢山あり、7-9月に計400㎜程度の降雨がある由だが、水の流れているところは少ない。然し、土地(黄土)は肥沃で、援助開始の時に1,200haの植林と併せ、経済林と称して梨、リンゴ、桃等も植樹し、今(2,000年時点)では省外にも売れて住民の生活レベル向上に役立ったと喜んでいた。又植林の結果、崖から水滴がしたたる程度だったのが僅かながら水流となり、生活用水になったと感謝していた。僅かな降雨を集めて貯蔵・利用する水窖(スイコウ)と言う地下水蔵が人口10万人の吉県には16,000か所も作られていた。
⑤ 残念だったのは、日本からの援助である旨の広報板が国道から7-8km入った現地にしかなく、国道沿いに作るのに、現地との交渉に半年間かかった。世界銀行からの借款での植林との看板が国道沿いに沢山あったので、3x5mと同じ寸法のモノを作らせたが、交渉が難航した理由は、「国連からの援助は誇らしいが、日本からの援助は有難いが、恥ずかしいのであまり他人に知られたくない」とのことだった。複雑な民情と言うべきか!?次回更に若干補足します。
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前回華国鋒に向かって言ったという、「君がやれば安心だ」との毛沢東の遺言は上海虹橋空港の搭乗口前の待合室の壁面に、大きな画像として描かれているのを,1980年上海駐在時代に見て違和感を覚えた事があるが、その華国鋒と云う人は温厚で、何事も無難に対処しようとしている人だと云う印象以外、政治的能力等格別な印象はなかった。
1、1978年末に鄧小平により改革開放政策が発表されると、殆どの中国人により、熱烈に支持され私の勤務する会社の北京事務所には連日多くの国営企業の責任者が「合作しましょう」と言いに来た。国としても企業としても具体的方法論が確立しておらず、殆どの提案は「私のところには工場建屋と人がいるので、自由に活用して良い。日本から設備と技術を持ち込んで何でも生産可能である」と云うものだった。その後材料、図面、見本を提供してくれれば、ご希望のモノを生産してあげます(来料加工)、技術を提供してくれれば製品で対価を払います(補償貿易)と云う方法が具体化して行った。以上の方法をまとめて「三来一補」等と言った。とにかく当時の中国は貧しく、国力も小さく、戦後わずか20年余で世界No.2の経済力と高度の技術レベルに達した日本はまるで魔法の国の如く感じていたようである。尚、当時の鄧小平は副総理に過ぎなかったが、既に実権を握っていた。
2、以上の如き背景の中で、今では絶対に考えられないような体験もしたので紹介しよう。人工衛星打ち上げ用ロケットを生産していた工場も予算不足の為、彼ら独自の「高技術」を利用して合作したいので工場を見てくれと言われ参観したこともある。尚、この時は中国人である事務所の運転手は機密保持の為として、工場敷地内には入れて貰えなかった。更に驚いたのは人工衛星のテストセンター(地上に宇宙空間を再現する)も参観した。丁度1990年前後のバブル景気が最高潮の時、多くの日本企業はアメリカに行って何でも買ってしまおうとしたことがあるが、常軌を逸していたと云う点では同じと思われる。航空工業部(省)の幹部は、「山東省に良質の大理石が沢山ある山を持っている。採石設備やクレーン、トラックを持ってきて好きなだけ採ってくれ。設備代は大理石で支払いましょう。」との提案までしてきた。類似の動きは各地各省で沢山あり、その後徐々に具体化して行った。墓石や建築用石材の多くが今では大量に中国から輸入されていることは、周知の通りである。
3、1980-81年私は上海にも代表事務所が必要との社命を受けて赴任して、丸一年駐在したが、当時の上海は大変遅れており、10年余も後で鄧小平は、深圳などの発展ぶりを視察した後上海にも行き(南方巡行)、上海の改革開放が遅々として進まないのを見て、「失敗した。上海も改革開放都市に指定すべきであった」と述懐し、再号令をかけた。当時の上海人は北京に対して恨みを抱いており、復旦大学の学長までが「従来上海の経済、科学技術が北京や他地域より高いので、国は上海に再投資せず搾取ばかりしている」と嘆いていた程である。
4、日中関係全般状況も今では考えられない程、良好で中国側は日本に対して秋波を送っていた。やはり「事大主義の発露」であった。中国政府首脳が相次いで来日。例えば1978年10月には鄧小平が来日、新幹線に乗車、そのスピードに感嘆し、新日鉄の君津工場の自動化レベルに驚嘆した。帰国2か月後の改革開放の大号令に大きな影響を与えた。翌79年には華国鋒、82年には趙紫陽、83年には胡耀邦と相次いで来日した。今では考えられない様な状況であった。
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日中国交正常化への流れ:ソ連から核攻撃を受けるかも知れないと恐れた毛沢東等中国の首脳部は、自国の安全保障をより強化する為にも日米との関係改善を急いだ。我々の仕事相手は実質的に国家公務員の中堅幹部が殆どであったが、彼らの言動は政府首脳の意向を反映していた。商談成立毎に開いた宴会では、「両国人民の友好の為に!」とか、「皆さんの橋梁工作(橋を架ける仕事)への敬意をこめて!」とか頻繁に聞かされた。更に、「本来道のなかったところが道になるのは多くの人達が行き交うからです。皆さんはその先駆けです」とのリップサービスを口にする方々も居た。総じて日本側よりは中国側がより情熱的且積極的であった。
1、 当時の中国貿易は純粋な民間貿易の他に、LT貿易というのがあった。これは高崎達之助氏と廖承志氏が政府の意向を受けて覚書を結んで(1962年9月)、お互いに輸出入したい品目などを提示し合いながら、やや計画的に実行したものである。親中親日人士の人名の最初のローマ字で表記していたが、あまり適切な表現ではないとして1968年からは覚書を取り交わして実施する貿易と言う意味で、覚書貿易(MT貿易)と称するようになった。
2、1971年3月名古屋で開催の世界卓球選手権大会に中国も参加して、友好ムードを高揚させて「ピンポン外交」と言われるようになった。7月9-11日にはアメリカの大統領補佐官であった、キッシンジャーが極秘に訪中していたことが、後日判明した。又、同年10月には国連に加盟して、台湾(中華民国)にとって代わり、中国大陸が常任理事国になった。
3、1972年2月21-28日には、米国大統領であるニクソン訪中となり、上海コミュニケが発表され 日本中大騒ぎとなり、一気に国交正常化の流れが高まった。同年9月には田中角栄首相の訪中となり、国交正常化の共同声明が出されたことは周知の通りです。松村謙三、高崎達之助、岡崎嘉平太各氏等は、井戸を掘った人達と言われ、我々に対しても時には「皆さんも井戸を掘った人達です」とお世辞を言う中国人も何人か居た。飲み水に適した清水(せいすい)が少ない中国大陸では、古来清水のある井戸を掘り当てて人々に飲み水を提供することは大変尊いこととされていた。斯様な事情が、「水を飲む時には井戸を掘った人達を忘れるな!」との格言を生む下地となった。
4、国交が正常化されると、日中間の往来も増加し、暫くは新婚ムードであったが、我々駐在員に対する“国賓待遇”もいつの間にか、なくなってしまった。但し、それまでは殆ど何時も日本側が中国を訪問し、ユーザー工場や研究所を参観していたが、中国側が日本に来るのは極めて稀であり、実質上一方通行だったのが相互往来になったのは嬉しかった。日本の技術力や実力が西欧以上なることを、直接自分の目で見て理解して頂くことが出来、「百聞不如一見」となった。
5、余談だが、国交正常化直後の72年11月初めに急遽北朝鮮に行くことになった。主要な17商社に優先的に商売の材料を提供するとの情報があり、私の所属する会社もその中の一社になっていたが、本社では日本から誰かを派遣する程でもないと判断、当時北京に長期出張中だった私に白羽の矢があてられた。然し困ったことに、パスポートは,Except North Korea(北朝鮮を除く)との条件付となっており、急遽北京飯店に開設の臨時の日本大使館を訪問し、一時パスポートを発行して貰うことになった。形式的には違法行為だが止むなしであった。眼の前でパスポートを作成してくれた参事官殿より、北京―ピョンヤン飛行中にパスポートを交換することが必須と念押された。出発地の捺印がないパスポートで北朝鮮に入国した次第であった。
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天安門事件に関しては、2013年1月の第39回、及び40回にも報告しており若干重複するが興味のある方はご参照下さい。尚、忘れがたい一コマがあるので紹介しましょう。6月3日夜の西方から進軍して来た解放軍の長蛇の隊列も、私が滞在していた民族飯店から東方3km先にある天安門へと進んで行き、なくなった。やがて狙撃されるのを避けるため路地裏などに隠れていた学生たちが次々と長安街通りに戻って来た。5-6千人にはなったかと思われた頃、自然発生的にインターナショナル(中国では国際歌と言っていた)を斉唱し始めた。この歌は日本でも左翼的な学生達がデモ等示威行動をする時によく歌われたものである。然しその歌声は物悲しい雰囲気が漂っており、学生達の虚脱感、敗北感を物語っていたのでは、と感じた次第である。
西安について:唐突ではあるが西安について紹介したい。前回1992年10月天皇皇后両陛下が訪中なされ、当時は中国の対日友好度が高かったことを紹介しました。その折両陛下は西安もご訪問されたが、その一端をそれから5年後の1997年に私は西安で体感することとなりました。と言うのは仕事上の仲間と西安に旅行したのですが、現地ガイドに西安の市街地を取り巻く城壁の西南部に案内され、城壁を上るよう促されました。すると椅子が二脚外に向かって置いてあるのを目にしたが、「これらの椅子は両陛下がお座りになったものです」との解説でした。徒歩でお上りになられた両陛下はお疲れだろうと配慮されたものと思われます。それにしても5年後も同じ場所に椅子を置いておくと言うことは、当時まだまだ中国の対日友好度、親日度が相当高かったことを物語っていると思われますが如何でしょうか!?
実は私はその前にも、何度も西安を訪問しています。それは西安が仕事上のユーザー業種である電子産業が比較的発達した地区だったからです。西安の東方40kmにあり楊貴妃も入浴したという華清池は臨潼と言う小さな町にあるが、その東側には秦の始皇帝陵や兵馬陵があります。これ等の状況は西安に行ったことのある人なら、誰でも知っていると思われるが、私の初訪問だった1978年ごろは、観光地化された後より良かったとの思いがあります。即ち:
兵馬俑発見から4年しか経っておらず、風雨を防ぐ建物はなく露天であったが、土産物を売る商店などなくゆっくり見物出来たこと、華清池では入り口に近いところ左右に温泉風呂が沢山あり、入浴できたことです。但し風呂水の温度は35-6度しかなく、ややぬるかったと記憶しますが。現在はどうでしょうか?
次回は日本の対中ODA援助の現地拠点での管理麺の仕事をしていた時、1996年1月初めから2000年4月末まで(途中一時帰国あり)の間に感じた印象、特に中国側が日本からの援助の事実を広報したがらない背景等について紹介しましょう。
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湖北省や黄土高原には、東部の都会や平原に住んでいる中国人も知らない世界があった。
① 湖北省西部の神農架林区には野人(猿人とも)が住んでいると言われる。一度林業関係者と訪問したが、小さな展示館もあり目撃したという人の証言に基づく人物像や樹木にこすった際の脱毛だと言う体毛等が展示されていた。但し、科学者は誰一人調査に来ていないので、浮浪者か世捨て人ではないかとの意見もあった。
② 長江に流れ込む支流もあるが、流域の大部分は水がなく水無川かなと思うと、突然流水を目にする(伏流水)という不思議な河川もあった。河川規模はかなり大きかった。
③ 更に神農架林区とその南方100余キロを流れる長江との間の山間部には、歴史上有名な二人の故郷でもある。一人は楚辞で有名な屈原で、もう一人は王昭君である。王昭君は前漢第11代の元帝の養女となり、皇女としてBC33に匈奴(モンゴル族)の呼韓耶単于に嫁されたが、伝承とは異なり幸せな生涯だったようだ。以前連続テレビドラマになったが、現在DVDとして売られているので、在中の方々には買ってご覧になるようお勧めします。韓ドラより史実に近く面白いと言えます。王昭君の復元故居には籾(もみ)を風力で選別する唐箕(とうみ)が置かれており驚いた(昭和30年代まで日本の農村では使用された)。
④ 編鐘:BC10世紀から5世紀(孔子の時代)頃まで、王侯貴族の間で重用された青銅製の打楽器だが、40年程前に湖北省中北部の髄州市の曾侯乙墓より完全な一式65点が発掘された。墓誌記録等からBC433に埋葬されたもので、釣鐘形の楽器だが、大は高さ1.5m程度、小は全高20㎝程度である。武漢市東湖西側に隣接する湖北省博物館に展示する他、複製品で演奏と舞踊を鑑賞できる。他に東湖内の楚天台の小劇場、黄鶴楼の東側にある小劇場、荊州博物館などでも演奏がある。十回以上鑑賞した私の印象では、日本の弥生時代の遺跡から出土する銅鐸は、本来この編鍾だったのではないかと思う。吊り下げ部が丸いのが編鍾だが、薄っぺらくしたのが銅鐸で、その他あまりにも類似しているからである。
⑤ 十数年前長江ダムが完成した時、林業関係仲間はこれで中国は戦争できなくなったと言ったものである。このダムの貯水は500㎞余上流の重慶辺りまで達するが、万一交戦国にダムを破壊されると分洪政策でも対応不可で、武漢、南京、上海他下流の広範な流域は超大津波に飲まれたようになると言っていた。
⑥ 黄土高原やその周辺では、黄土壁面をくり抜いて住居や倉庫に使用する窑洞(ヤオトン)が今でも沢山使われていた。小学校の分校としての利用しているのを参観したが、夏は涼しく冬は暖かく便利そうだった。但し換気方法が良くない印象だった。
⑦ 前回紹介した黄土高原の一部である吉県では、米の生産はなく毎月出張時食べた主食は麺類か稗粟(ひえ、あわ)、コウリャン、トウモロコシだった。例外的に一度だけ特別に取り寄せたとして米飯が出された。貧弱な畑で農産物を生産する農家と羊や山羊を飼っている牧民とのトラブルも多いようで、私が仕事の関係で訪問した中国辺境地の中でも最も貧しかった。風呂はなく、夏なら谷川に下りてゆき水浴びするか、洗面器の水で体を拭くのが現地人の風習だった。従い、よりましな寧夏回族自治区の半砂漠地への移民もあったが、次回報告しましょう。
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上海の大きな発展と変化をもう少し紹介しよう。上海に常駐されている方々は先刻ご承知のことと思われますが、最近の上海の人々の所得レベルは、1980年代の日本と同レベルと言えるでしょう。深圳に次いで高レベルと言えます。上海人の居住面積が一人当たり平均6㎡と長年言われていたが、2倍以上になったことは間違いないでしょう。特に目立つのは:
1、 街らしい状況は中山路に囲まれた範囲内で東京23区より狭かったのが、地下鉄と高速道路の建設により、今や東京首都圏規模になったと言えるでしょう。上海市の面積は元々6300㎢で、東京都、神奈川県に埼玉県の半分を足した広さだったが、この30年で人口は倍増し2,800万人となった。但しその1/3は上海には戸籍がない状況である。
2、 私の体験上驚いたのは2004年には浦東地区の世紀公園の南側約1kmの龍陽路駅を始発駅として浦東空港までの30kmにリニアモーターカーの営業運行を始めた事である。2005年以降3回利用してみたが、車両内前部には速度を表示しており、最高速度は431㎞だった。
加速、減速時を含め静かであったが、その後何度か故障したとのことであり、本当に国家検収に合格したのか疑問が残った。日本では考えられないが、湖北省武漢市内を流れる長江には日本のODAを利用して建設された第二大橋があり、武漢時代の1996年からよく利用したが、最終的に検収(使用許可の為の確認検査)が上がったのは一年後の1997年だった。
3、 大連時代であるが、2008年に仕事で浙江省に出張し、最後の訪問先が寧波市内の工場であったので、帰路同市西北部郊外から上海西南部に架かる杭州湾大橋(35km長)を車で走り浦東空港に向かった。あたかも千葉県袖ケ浦から羽田空港に向かう為、東京湾アクアラインを利用するが如しであった。尚杭州湾は遠浅であり、漏斗状の形状をしており西側は銭塘江に繋がっており、観光都市杭州の南郊外を流れている(この辺の川幅は2㎞未満)為、満潮時には津波の如く逆流現象が発生し、毎年その激しさを軽視する観光客の何人かが落命している(岸壁の内側に大きな岩石があり、そこから写真を撮ろうとする者がいる。警告掲示はあるのだが)。満潮時潮位が50㎝上がれば、銭塘江ではその20倍の10m位の潮位となる。
4、 日本人は殆ど北京も上海も同じ中国と見てしまう傾向があるが、大いに異なる。先ず上海語は北京語(標準語の基礎)とは全く異なり、昔商談時に目の前で中国側が上海語で内緒話をされたのには閉口した。漢和辞典に呉音との説明が多いが、これは古代の呉(蘇州や上海地区)の読み方が来源と言う意味で、北京人に言わせれば、今でも遠くで聞くと上海語と日本語は同じように聞こえると言う。気風も異なり多くの上海人は北京人を田舎者と見做し、北京人は上海人を外国かぶれと見做す傾向がある。上海人は国際感覚豊かと自認しているが!また日本人は往々にして中国人はニンニクを常食すると思いがちだが、上海人の多くはニンニクを嫌い、酒も北京等北方や内陸部の人達が50度以上もある白酒(蒸留酒)を愛飲するのに反し、上海人は其れを軽蔑し、「彼らはガソリンの如き飲料を飲む」と揶揄し、醸造酒である紹興酒等黄酒(古来日本では老酒、ラオチューと呼んだ)を愛飲する。骨格や顔つきも異なり同じ漢民族とは思えない。
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中国崩壊論が相変らず続いているが中国分裂論と併せて考察すると、経済的・軍事的に中国の存在感が大きくなったことに対する脅威感及び潜在的な期待感が背景にあるとしか思えない。中国の歴史戦の背景が対日コンプレックスと潜在的な願望であるのと同類とも言えよう。
前にも指摘したが、毛沢東による1958-61年の大躍進政策の大失敗や1976年から10年も続いた「文化大革命」の大きな弊害にも拘わらず、中国は崩壊も分裂もしなかった。一方日本も失われた20年と言われるように、この20年余経済的にはゼロ成長とも言うべき状態が続いて来たが、誰も日本が崩壊する等と論ぜず、実際崩壊しなかった。
1、 むしろ今後の中国に対する注目点は、自由、民主、法の支配と言う世界の潮流に逆行している政治体制の大変革が何時頃始まるか、別な言い方をするなら何時頃“中国版ゴルバチョウ”が出現するかと言うことであろう。この数十年中国の経済規模は驚くほど大きくなり、庶民の生活も豊かになったが、私が初訪中し駐在した1965年頃と較べて中国人の表情は明らかに険しくなっている。おだやかで笑顔が多く助け合い活動が盛んだった50年前の方が、明らかに中国人は幸せだった。今は権貴族と言われる特権階級は 何時まで特権が維持できるか不安でたまらない。多くの農民や労働者は社会的不公平感に苛立ちを隠せない(1965年より都合25-6年間現地で観察した中国人の表情の変化を別途稿を改めて紹介予定)。
2、 中国経済はインフラ投資や設備投資に過度に依存しており、実需を無視して継続しようとしている。実質上破産している国営企業が存続、ゾンビ企業と呼ばれたり、新興都市になるべきニュータウンが鬼城(ゴーストタウン)化している現象は、何時までも放置できないのは自明であろう。然し、この20年余中国の企業寿命が3-4年で推移しており、日本や欧米の1/10程度であり、日本の常識等通用しない国情であることは、しっかりと認識する必要があろう。
3、 鄧小平は改革開放政策を発表した時、同時に「先富論」を提示した。それは暫くの間は、不平等の発生するのを恐れず、出来る者から先に豊かになって構わないが、一定レベルに達したら、社会的平準化を図るべしと言うものだった。もう一点彼が強調したのは政治改革が後回しになることに関して、「四つの小龍」に見習えと盛んに宣伝した。それは中国より遥かに豊かだった香港(イギリスの植民地)、シンガポール(リークアンユーの独裁)、台湾(国民党の支配)、韓国(軍事独裁政権)は、相当長期間、実質上独裁体制であったが豊かになったとして、経済面では自由な活動を許容して経済発展を図るものだった。然し、長年計画経済の事なかれ主義に毒されていた大多数の幹部達は、模索中と言った状態だった。そこで、「白猫黒猫論」(毛色に関係なくネズミを捕る猫は良い猫だ)を宣伝し、思想信条より経済第一主義を明確に打ち出した。
4、 政治改革の遅れと経済格差に不満が鬱積した学生等(実際は警察学校の学生や下級官僚迄参加)が1989年4-6月天安門事件を起こした。当時私は北京で商社の事務所長をしていたが、中国人の部下や交流のあった大学教授まで、成功すると言い出す始末だった。その時、私は中国内政に干渉する積りはないが、「成功しない、何故なら圧倒的多数の農民や工場労働者は様子見であり、積極的に参加したり支援していない」と自重を促した。現在更なる過度な投資策で景気浮揚を図ろうとし、農民や労働者重視の政策が打ち出せないなら、本格的な政治改革は避けられないであろう。
(2016-5-6記)
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1999-2000年の一年余、毎月北京から山西省吉県の職場まで出張したが、約千キロの道のりを殆どは四輪駆動車で北京を早朝出発し、夕方到着した。石家庄までは立派な高速道路だったが、そこから右折し太原方向に向かうと、片側二車線ある有料道路だがしばしば石炭輸送トラックが二台並行して徐行するので、追い越しに苦労した。私から頼んで何回かは夜行列車で山西省の臨汾まで行き、手配済みの迎えの車に乗り換え、吉県までの100余キロを走ったが、途中の山越えが大変危険なものだった。10余キロの山すそは半トンネル状態の道路だったが、コンクリート等での補強工事がされなく、ところどころ落石が見られ、万一直撃されたら命の危険さえあった。中国在住の皆さんは、未知の道路を走る時はくれぐれも事前調査をして下さい。
尚、北京での勤務は北京林業大学がタクシー代を負担すると言うので、毎日宿舎である中関村の燕山大酒店から大学までタクシーで通勤した。渋滞を避けて脇道を走ったが、舗装してそれ程経っていない道路だが損傷がひどく、乗る度に運転手に聞くと「工事業者が悪いのではない。ピンハネを二重三重にされるので、偸工減料(手抜き工事)にならざるを得ない」と異口同音に言う。そこで、何処の国でも世間通であるタクシードライバーに、官僚の収賄問題について質問し、一種の世論調査を約一年間実施した。7-8割はとか、全てがとか回答するのが殆どであったが、感情的思い込みもあるだろうと割り引いても、半数以上の官僚は収賄とか公金の流用に手を染めていたと言えよう。中国貿易が活発化する前の7-8年間、同時並行的に仕事で付き合った旧ソ連や東欧諸国も同様で、独裁体制(民主集中制と言う)は腐敗し易く、絶対的体制は絶対に腐敗すると言う、既に歴史的に証明されたことが中国に対しても言えることを確認した次第である・
私が初めて訪中し駐在した1965年頃は、大躍進政策の失敗の修正が成果を出し始め将来に夢が描けたことと、みんな貧しく助け合う他生きようがない時代で腐敗現象は殆どなかった。更に父母に対しても公開で批判するという文革時代も例外的に、ほとんど腐敗現象はなかったと言える。
人間は性悪説で言うほど悪くはないが、性善説で言うほど善人の集まりでもないことは、既に 古今東西の歴史が証明しているとも言える。
2002-2004年の2年間、北京より千キロ余西方の沙漠の街、石炭の街である寧夏回族自治区の石嘴山市にあったトヨタ系の活性炭工場に勤務した時代の現地情況に就いて紹介しましょう。当時この市には外国人常駐者は、カナダから来ていた英語の教師以外は我々三人以外は居らず、中国でもあまり知られていない地域であった。沙漠の状況は、平山郁夫画伯の描いたようなものではなく、喜多郎が作曲し奏でるようなものでもなく、童謡の月の砂漠のようなものでもなかった。
頻発する短時間の黄砂、街路樹が東向きに傾斜している程の強い西風、公道に面した豪華な刑務所事務所の看板、河川の殆どは水無川、塩ふく畑、滅多にない中華料理店等々具体的には次回から紹介しましょう。
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