2016年 8月の記事一覧
現在アジア諸国の対日感情は、中韓を除き総じて良好だが、日中国交正常化した1972年頃はむしろ逆だった。リップサービスを含め「中日友好!中日友好!」と嫌になるくらい聞かされたが、1974年田中首相が東南アジア歴訪の際には反日デモに遭遇することとなった。中国が盛んに攻撃していた佐藤元首相が、沖縄を平和的に返還したことを評価されノーベル平和賞を受賞、米国フォード大統領が就任早々来日する等日本には追い風だったが、韓国では朴大統領狙撃事件が発生する等、当時の日本は相対的に中韓からは畏敬される存在だったとも言えよう。翌75年には蒋介石が死去、ベトナム戦争終結、昭和天皇皇后両陛下の訪米等もあり、中国は日本の影響力が強くなり覇権主義に変化するのを本気で恐れており、平和条約交渉では「覇権主義に反対し、お互い覇権主義を求めない」を再三再四強調していた。そのような流れの中で、中国では激動の1976年を迎えた。尚この年の1-6月私は東京勤務であった。
1、 新年早々周恩来首相が亡くなられ、東京南麻布の有栖川宮記念公園南方にある中国大使館別館に追悼施設が準備されたと聞き、同僚達と弔問に行った。驚いたのは、献花の数の多さであった。敷地内に納まらず有栖川宮記念公園まで届いてしまうのではないかと思われる程、 路上を北上していた。9月9日毛沢東が亡くなられたときは北京滞在であったが、当時の本社情報では献花数は周恩来の時よりかなり少なかったとのことであった。これは中国国内で清貧且良き調整者として親しまれていた周恩来だが、日本での人気の高さも物語っていた。
2、尚、78年末に改革開放の大号令をかけ中国の経済的豊かさを実現したのは、他でもなく鄧小平であるとの点では異論はないと思われるが、尊敬の念では毛沢東や周恩来には及ばないと思われる。その証拠の一つはこの二人の偉人は、半ば神様扱いとなり、その写真がお守りの如く自動車のバックミラーにぶら下げられるようになった。
3、1976年7月28日未明唐山(天津の約100㎞東北方向、北京よりは160㎞東南東)で大地震が発生した。この時私は中国生まれの同僚と日本人の常宿である新僑飯店に宿泊していたが、強い地震の揺れを感じて目を覚まし、同ホテル内にあった事務所を点検したが、書架より若干書類が落ちた程度なので、また部屋に戻り寝てしまった。同僚は「地震だ、外に出ろ!」との中国人的習慣があった為、出口に近いロビーまで降りて行ったと言う。後刻フランス航空のスチュアーデスが全裸でシーツを抱えて降りてきていた等と話していた。北京でも2環路南側にあった古い民家群数百が倒壊し、死者300人以上との情報もあったが、唐山では中国の公式発表でも28万人の死者とのことであった。印象深いのは:①当日昼前には解放軍の真新しい8人用テントが、天安門東側の公園に沢山用意されホテルの客は全て避難させられた。日常の生活や仕事にも支障ないように関係者も全て移動していて、その迅速さや周到さに感嘆した。②四人組が健在な時代で諸外国からの援助は全て断わり、自力更生精神を遺憾なく発揮していた。③一般大衆への援助は見られず、北京の庶民は公園、歩道、路地等に、夜のみ布切れやビニール等で覆いを作り9月末頃まで夜間の就寝場所としていた。中国のマスコミは救援活動のすばらしさを盛んに報道していたが、被害状況は不明だった。9年前の1967年参観した唐山の陶器工場、沙石峪等は壊滅状態だったろうと日本人同士で憶測する他なかった。
4、華国鋒に向かって言ったとされる「君がやれば安心だ」との毛沢東の遺言に従い、彼が党主席に就任したが、翌10月には四人組を逮捕し文革活動を中止してしまった。
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前回1972年11月の北朝鮮への出張の件を記したが、ピョンヤンでの体験を若干紹介しましょう。空港ビルは北京同様貧弱だったが、街中への道中見たのは建設中の沢山の高層アパートで、当時中国より豊かだと言われていたことを実感した。街で見かける殆どの女性はスカート姿であり、男性はネクタイをしており、女性はズボン姿、男性は人民服(工人服)の中国より親近感があった。又拉致事件のことなど想像も出来ない時代で、ホテルの女性は廊下ですれ違うと、立ち止まり客の通行を優先させていた。一方日本との通信であるテレックスは、ホテルロビーの一角にあったテレプリンターから、みんなが見ている前で、段落毎の文頭を読みながらどこの会社宛か確かめて配布する仕組みになっており、国際電話もフロアーの角で掛ける仕組みで、スタッフが通話中も側で聞いていた。盗聴ではなく故障が多いので、実質的通話時間の確認の為と言う。ホテルの食事はコメのご飯は美味しかったが、焼肉は厨房で焼いて冷たくなったのを出されたのにはがっかりした。街中の移動や写真撮影の自由はなかったが、可能な限り口実を設けてタクシーで見物したが、商店等では中国より品数が少なく、貧しいとの印象だった。古都であるケソン(開城市)や南北38度線の窓口とも言うべき板門店の参観もあったが、特記するほどのことはなかった。話を中国に戻すが:
1、1972年9月に国交が正常化すると間もなく、国賓待遇はなくなったことは既に紹介したが、急増する訪日中国人ユーザーや貿易公司(会社)の方々への応対が頭痛の種だった。それまで地方に出張すれば、迎えの車が駅のホームまで来てくれ、飛行機ではタラップ下まで配車し出迎えてくれたこと、市長さん等が挨拶に来られたこと、更に歌舞音曲の鑑賞では貴賓室に通され、博物館見学では人払い等をされていたが、日本ではこんな応対は絶対に出来ないので、ユーザー等が設備やプラントの買い付けの下見に訪日することが決まった時には、日本では斯様な特別待遇は出来ないことを前もって説明する他なかった。
2、文化革命は、1966-76年と10年も続き、後半は「四人組」時代でもあったが、人々には疲れが見られ情勢の正常化を望む空気が濃厚になってきて仕事面でも好転の兆しが見えてきた。然し、日本を含む常駐している西側マスコミは事件探しに奔走している様に見えた。即ち何か事件があると繰り返し報道、我々商社マンの目には正しいとは思えなかった。又東アジア情勢も変化した。日本では72年に沖縄復帰、モンゴルと国交樹立、東パキスタンがバングラデシュとして独立、73年には東独や北ベトナムと国交樹立、74年には鉄鋼生産が日本の半分もない中国(今は日本の8倍)への鉄鋼プラント輸出協定締結、75年にはベトナム戦争終結、蒋介石の逝去、天皇皇后の訪米等々。日中関係を法的にも確定する為の条約交渉も始まっていたが、中国側はアメリカのみならず日本もアジアで覇権主義を確立しようとしているとの疑念を抱き、互いに覇権主義を求めないことを強く求めていた。中国の現状を見ると隔世の感がある。
3、では何故あれ程覇権主義に反対していた中国が、今は全く触れないようになったのだろうか?
類似状況として、以前は「打倒アメリカ帝国主義とか、打倒ソ連修正社会帝国主義」とか言っていたのが、何故今は言わなくなったのだろうか?中国は中華思想の国と言われることもあるが、1840-42年のアヘン戦争でイギリスに負け、香港島を割譲させられ、以後100年余日本を含む列強諸国に国中蹂躙、支配され中華思想どころではなかった。有史以来中国大陸を支配する原理は、むしろ事大主義と言った方が良い。弱ければ強い国々の言いなりになり、強ければ自己の主張や利益を全ての基準にしようとすることで、今はアメリカに対抗出来るところまで強くなったと自認する段階になったことであろう。後日、より具体的に解説しましょう。
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