2013年 1月の記事一覧
限って関連事項を若干報告しましょう。当時、政府の政策諮問機関(シンクタンク)である社会科学院や警察学校の中にも、学生達の示威行動に同調者がいたと言われ、大学の中にも同情する教授達が相当いたと言われる。
1、 困った事態が一つあった。私が所長をしていた北京事務所には現地スタッフが13名在籍していたが、その中数名は座り込みに参加したいので、一時的職場離脱を認めてくれと、5月中頃より執拗に要求してきた。当然拒否したが、彼らは「これは中国の内政問題故、所長といえども外国人故干渉できないはず」と主張した。私は「バカなことを言うな!君等の安全を真っ先に考えるのは仕事以前の所長の責務である」と拒否した上で、「座り込みは明らかに違法行為である。若し東京の皇居前広場で類似の事態が発生すれば直ちに排除される。第一今回大多数の工場労働者や農民は同調した動きをしていない。今後何が発生するか分からないので、せいぜい車で通りすがりに見る程度にしておけ」として、拒否姿勢を貫いた。
2、 事件直後日本大使館より、北京の東北部にあり「比較的安全な崑崙飯店に一時的に避難されたい」との勧告があり、続いて「一時帰国し安全が確認されてから帰任する様に」との勧告が出された。止む無くその通り行動し翌日社長に報告に行くと「君は前線の司令官である。将兵を残して戦線を離脱するとは何事か」との叱責を受けた。政府の勧告は実質的に命令であり従う他なかった旨釈明し、直ぐ北京に戻ると決意表明した。「1950年から交流している我々は、政府関係者より遥かに中国事情に精通しており、一緒に働いている部下は同志でもある。早急に北京に戻るが良い。一旦帰国して政府の面子も立てたことになる」との指示でそのようにした。
3、 この事件により日本を含む西側諸国は、対中制裁を実行した。即ち中国向けの世銀借款を初め各国のODA提供を凍結し、政府間交流も制限した。然し日本政府は翌90年11月にはODA凍結を、他の欧米諸国に先駆けて解除した。当時バブルの最高潮時期であり、世界で最も裕福な国と言われた時期であった為、中国側の対日評価や好感度は最高になった。若し、当時世論調査をすれば、世界中で一番好きな国は日本となったであろう。最近の日中関係からは想像できない情況であった。
4、91年のある日突然国家安全部より連絡があり会いたいとのことだった。何事かと思いながらも指定されたホテルに出向くと、1965年からの知人が宴席を用意していた。彼等は配転され現職となった由で、目下天安門事件を深刻に総括しているが、今後の採るべき政策について助言を願いたいとのことだった。2点のみ申し上げた。①段階的に普通選挙を実施すること、及び②規律委員会は党の外、即ち人代機関としてより強い権限のあるものにして設置すべきである、の2点である。
① に就いては既に検討済みで、郷鎮村落や都市部では区段階から実施することになろうとのことだったが、その後の状況を見ると、実施はしているが選挙前に候補者の絞り込みがあり、意図した通りにはなっていないと見られる。
② 就いては党内の組織では上層部にはメスが入れ難いので、人代機関として非党員を主体にすべきと進言したが、その後確たる動きは見られない。
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前回の(38)で唐山大地震について述べましたが、2012年5月23日投稿のブログの大部分が重複してしまいました。取り上げた角度は異なるのですが、重複には相違ないので先ずはお詫び致します。
私は1985年秋から1991年末まで、1988年一時帰国した期間を除いて北京に駐在しました。天安門事件は1989年6月3日夜から翌朝にかけて発生しました。当時の私の住居は中南海(政府首脳の居住・執務地区)の1.5㎞西方の民族飯店9階(地上階から数えるので実際は10階)の南側、即ち長安街大通りに面した部屋でした。
1、 発端は同年4月15日亡くなられた胡耀邦総書記追悼のささやかな自転車による
市内行進でした。最初に目撃したのは20人足らずでしたが、日毎に人数が増加し政治改革の旗印が出てきて、5月中旬ソ連(当時)のゴルバチョフ書記長の訪中時には100万人規模(と西側マスコミは報道、私の経験則上の目測では4-50万人)の天安門前広場での座り込みとなっていました。我々日本人は異口同音に日常付合いのある政府中堅幹部に対して、こんな違法行動は消防車等繰り出し排除すべきと進言したが、誰も耳を貸そうとしなかった(内心学生達に同情したのかも)。5月20日になると戒厳令が発令されたが、大きな変化はなかった。
2、 中南海の正門である新華門では警備の武装警官隊と学生達が、混乱もなく対峙していたが、大きな交差点等では交通警官の業務は麻痺しており、代わりに学生達が東西南北交代で手をつなぎ直し、交通整理をしていたが大変スムーズであり、学生達もなかなかやるなと思わされた。6月に入り地方の解放軍が動員されて旧市内への主要出入り口に配置されたが、何故か広場の座込み学生達排除の動きはなかった。尚、斯様な状況下でも我々の日常業務は略正常だった。日本等西側マスコミは問題点だった地域の状況を繰り返し報道した為、北京中がまるで動乱状態であるかのような印象を与えたのではないかと思う。
3、 6月3日夜10時頃より、北京西郊外より長安街大通りを解放軍が歩兵の他バス、 戦車等に分乗し延々と進軍して来た様子は電灯を消した部屋より観察し続けた。一部の歩兵等は学生達集団により棍棒で袋叩きにされる様子や、歩兵が不規則に発砲する状況も目撃、軍の最後尾が東進し切ると、学生達が再度大通りに集まり、昔日本の左翼活動家が良く歌った「インターナショナル」の大合唱を始めたのが印象的だった。
4、 翌日同じホテル宿泊の同僚と銃撃跡を検分して回ったり、他商社の連中と情報交換したりしたが、天安門前広場での死者の目撃情報はなかった。広場を数百メートル離れた幾つかの地点で多数殺害されていたとの情報が集まったが、300人未満であり実際はその倍あったとしても、西側報道の如く何千と言う規模には疑問を感じた。又後年中国当局発表の319人と言うのも過少との印象である。
2005年春や昨秋の暴徒化したデモでもそうだが、中国での治安維持行動は我々日本人には理解し難い面があるのは明らかである。違法行為はさっさと取り締まれば良いのだが、やはり法治と言うより人治であり、当局内部で異論百出してしまうと容易に結論に達せず、結果として暴動化するまで放置した挙句過激な対処になってしまうと言えよう。
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集団管理(1)では文革中の一断面を紹介しましたが、当時は各地を“無銭旅行”した他北京や天津郊外の工場、人民公社、学校等参観活動にも毎週の如く参加しました。
勿論映画、歌舞音曲の鑑賞等もあり、「白毛女」等はバレーになったのも見ました。文革で筋書きが変更されたのも含め、都合10回以上は“鑑賞”したことになります。
90年代以降多くの中国人が「紅衛兵の被害者だった」様なことを言うのには、違和感を覚えました。と言うのは当時若者の殆ど全てが紅衛兵だったからです。被害者と言うなら加害者でもあったはずです。又実のところ何処を見ても武闘騒ぎはなく、それは一部の人々の間の出来事だったと確信します。かなり管理されたものだったと思います。
ところで文革終末に近い1976年7月28日早朝4:53唐山大地震が発生して甚大な被害が出ました。当時駐在ではないが半年近い長期出張をしており、北京旧市内の東南角の新僑飯店と言う安宿に宿泊していました。当ホテルには商社・メーカー等経済活動に従事していた外国人(エアフランス等一部航空会社のスタッフも宿泊)の定宿でしたが、建屋は極めて頑丈な造りであった為一切被害はなかったが、二環南路沿にあった古い民家は軒並み崩壊し、北京でも300人以上の死者が出たとの街道消息(町のニュース)が
ありました。此処で特筆したいのは3点あります。
1、 当時中国での長期滞在外国人に対する気遣いは大変周到であったと言うことです。
地震に慣れている我々日本人は、同ホテル内にあった事務所に被害がないことを
確かめると再度寝てしまいましたが、朝8時ごろには中国側手配により労働人民文化宮(本来故宮の一部)に避難をさせられました。強い余震の発生を恐れた避難所暮らしではあっても、正常な仕事が出来る様、通信手段の確保、臨時の食堂の設置、真新しいテントと簡易ベッド、トイレ等設置されており、理髪店までホテルから移っていました。安全管理も徹底していて、慰問に来られた日本大使館スタッフも中には入れて貰えず、入り口まで慰問品受け取りに出向いた程でした。
2、 対照的だったのが、北京の一般住民の生活でした。日本では内陸部で大きい地震があると、「先ず火を消せ!」となりますが、中国では「先ず外に出ろ!」となります。燃え易い木造家屋の多い日本に対し、崩れ易いレンガ造りの家屋が多い長年の習慣に根ざしていると思います。従って北京中の殆ど全ての住民は歩道や空き地に自分で、ビニールシートや布を張り巡らせ、夜間の睡眠場所を確保していました。
日中は自宅で正常に生活し、仕事もしながら夜だけは寝具を持参し自分で確保した場所で一夜を過ごした訳です。驚いたことに、こんな異常な情況にも拘わらず盗難等大した混乱も発生せず、異常事態への中国人の適応力に心中感服したものでした。
3、 中国が開放政策に転じた後は、経済発展に反比例してモラルレベルが相当低下してしまったのは残念ですが、30年位前までは盗難等少なく、文革中と雖も今よりは安全だったのは確かです。香港ではホテル、デパート、住宅地にガードマンが居るのを大陸の中国人は笑っていました。当時は相互監視が厳しかったとか何処も貧しかったと言う中国人もいますが、どんな理由であれ安全、安心な生活が出来ることは良い事ですので、いずれ回復するのではないかと期待をしています。
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しましょう。日本では考えも及ばない情況でしたが、中国をより深く重層的に理解するのに役立つのではないかと思う。
1-1.紅衛兵の大集会:1967年5月から同年末まで、天津と北京に駐在しましたが、「文化大革命」の初期段階で、紅衛兵活動の最も激しい時期でした。日本では中国中が動乱状態であるかの様に報道されていましたが、それは事実ではありません。「武闘」と言われる如く、肉親でもつるし上げる様な過激な情況もあった様ですが、中国全体として見れば8-90%は平穏な生活をしていました。但し、やたらと集会や学習会が多く、経済活動に甚大な悪影響をもたらしたことは事実です。我々商社マンも取引相手の貿易会社(中央政府直轄の国営で、対外取引が可能な会社は20にも満たなかった。地方に分公司と言う支店があったが直接外国とは契約出来なかった。スタッフは全てエリートだった)が週の半分位は集会や学習会に参加しており、仕事には多大な影響があった。
同時に駐在していた新聞記者達は、「何か異常事態がないか、騒乱がないか」と探し求めている様に見えて、彼らに向かって「我々が不景気なほど、皆さんは景気がよくなりますね!」と皮肉を言ったほどでした。
1-2.1967年10月1日の国慶節(建国記念日)の祝賀パレードは、従来の整然とした慶祝行進ではなく、100万人の紅衛兵の大集会となり、我々北京駐在の外国人はほぼ全て招待されて観閲台(天安門の少し手前の両脇にある)に上り、広場の紅衛兵を見渡すと共に天安門上の毛沢東等国の首脳達を仰ぎ見る状況となった。ここで野次馬根性を発揮し、これ程の沢山の群集をどう管理しているのか、観察すると共に中国側関係者に“取材”した。天安門前広場より10~15㎞以内とあまり遠くない所から来る紅衛兵は徒歩で集合し、それ以上遠い所からの参加者はトラック、バス等を動員して参加した由。昼食等は適宜持参とされ、飲用水は車道と歩道の段差を利用して臨時の水道管が曳かれており、50m程度毎に蛇口が付いておりアルミコップも紐で下げてあった。歩道中央部には 7-80m毎に長方形の鉄板(20cmx50cm程度)が20枚前後敷いてあるが、それを外すと下は下水道になっており、天幕で囲って臨時のトイレとしていた。又約200m毎に医師や看護師による救護班が待機していると言う状況だった。更に「工作人員」と言う腕章を付けたスタッフが何万人も配置されており、全体としては乱れない情況を維持していた。
1965年10月1日の国慶節のパレードにも招待されたが、その時のパレードは経済調整策が上手く進んでいたこともあり、明るい華やかな整然としたものであった。67年ではまるで様変わりしていたが、悲壮感はなく多くの紅衛兵は何故か狂喜乱舞の状態であった。実権派(特権階級)が倒され、平等社会が来ると信じたのであろう。何があろうと生き抜いていく中国人社会の一断面を見せられた思いがした。
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