2012年 5月の記事一覧
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12年05月23日 21時31分12秒
Posted by: yanagizawa
唐山大地震、こう呼ばれる大地震が昔中国でもあり、最近では四川省でも大地震があったこと(震源地に近い漢旺には大きなタービン工場があり、昔何度も出張したことあり、関係者の安否が気になったが)は、マスコミ等での報道で、皆さんご存知でしょう。更に中国関連ニュースに注意している方々なら、中国の南部の雲南省では毎年の如く地震が発生していることもご存知でしょう。
今日は、3月22日に「中国を知るシリーズ(16)」で予告した中国での私の地震遭遇体験談を、ご参考までに披露しましょう。1976年7月28日午前3:47発生の唐山大地震です。改革開放が始まる3年弱前で、まだ文革推進派の毛沢東夫人、江青等「四人組」時代でした。日中国交が回復して4年近く経ってはいましたが、北京に常駐する日本の民間人は殆ど、新僑飯店(旧北京市街の東南部にあり、天安門広場に通じる東交民巷と言う開放前の外交官街の東端にある)に居住し、又事務所もこのホテルに置いていた。地震に関する中国の報道は遅かったと言われるが、我々外国人への対応は実に速かった。当日昼前には避難場所である、故宮東側に隣接する公園、(100年余前までは紫禁城の一部)「労働人民文化宮」に引越しさせられた。発生した瞬間は、相当搖れたが、一応起きて事務所としている部屋に行き、若干棚からものが落ちているだけで被害がないのを見届けて、再度寝てしまった。7時半頃一階のレストランに行き駐在員仲間と朝食をしたが、9時頃より避難するから準備するようにと、中国側より連絡があった。中国人(中国からの引揚日本人を含め)や西欧人は地震だと感じた瞬間、外に出る習慣があるので、地震発生時にロビーまで“仮避難”した中国からの引揚者でもある同僚は、「エアフランスのスチュアーデスを含め、欧米人は裸で寝る習慣だと分かったよ!」と自慢げに話していた。
避難所には8人用のテントと簡易ベッドが用意され、バス型の移動式トイレがマンホール上に設置され、食事、電話、理髪、テレックス等の通信サービス要員等ホテル従業員も移動して来ており、殆ど不便はなかった。真夏の為か現場ではシャワーしか手配されていなかったが、「ホテルに、物取りに行く」と言ってホテルに行くと、不思議なことに風呂ではお湯が出たので、風呂入りに行く結果となった。ホテルはボイラーの火は落としていなかった。郵便物の扱いも平常通り、仕事での外出も可能で、タクシーを呼んでくれた。防犯体制は厳重で、在京日本大使館より軽食や飲料水等慰問品が届いた時も、領事等大使館スタッフは中には入れず、避難所の入口まで受け取りに行き、「まともに応対できず,済みません」と、我々が詫びる始末であった。
滞在中の外国人への気配りは昔から素晴らしいものであったが、この時も痛感した。
然し、改革開放が本格化する80年代以降は、居留外国人が増加したこともあり、特別配慮はなくなり、「外賓」との呼称も何時の間にかなくなってしまった。
この地震では死者24万人とも、5-60万人とも言われたが、「自力更生」が強調されていた時代でもあり、外国からの援助は一切受け付けなかった。北京市内でも地震での死者は300人余との街道情報もあったが、第2環状南路(旧市街の南側城壁跡)の南側に並んでいた安普請の古い民家は、殆ど完全に崩落していたのを見届けた(今は高層アパート群となっている)。我々常駐者が確認した限り、主要建造物では故宮は無傷だったが、北京飯店と北京百貨店の上部構造には若干亀裂が生じた。殆どの歩道は避難用仮住まい地区となっていた。多くの市民が日中は平常に生活・仕事をしていたが、夜は余震を恐れて歩道上の仮住まいが寝室になっていた訳です。この仮住まいは有り合せの棒切れやビニールシートで覆われており、行政当局から特に指示や援助があった 形跡は見られず、中国人の最悪時の自活力に感心したものです。
地震の時、日本人の対応は「火を消せ!テーブル等の下に潜れ!」だが、中国人は欧米人同様「すぐ外へ出ろ!」です。レンガ積みの家屋はM6-7クラスの地震でも容易に崩壊するのを経験上、体得している訳です。尚、1972年にもケイダイ(刑のリットウでなくオオザトだが+台)で地震があり、雲南-ケイダイ-唐山を結ぶ線上には地震線があるとの説もあるが、インドや東南アジアの西側は数千万年前まで南方の海上にあり、徐々に北上し昔海底だったチベットやヒマラヤ山脈を押し上げて現在の姿になり、今尚北上しつつあり、停止していないのは地球物理学として、確認されているとのことです。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
Mail add. Knhr-yana-@jcom.home.ne.jp
今日は、3月22日に「中国を知るシリーズ(16)」で予告した中国での私の地震遭遇体験談を、ご参考までに披露しましょう。1976年7月28日午前3:47発生の唐山大地震です。改革開放が始まる3年弱前で、まだ文革推進派の毛沢東夫人、江青等「四人組」時代でした。日中国交が回復して4年近く経ってはいましたが、北京に常駐する日本の民間人は殆ど、新僑飯店(旧北京市街の東南部にあり、天安門広場に通じる東交民巷と言う開放前の外交官街の東端にある)に居住し、又事務所もこのホテルに置いていた。地震に関する中国の報道は遅かったと言われるが、我々外国人への対応は実に速かった。当日昼前には避難場所である、故宮東側に隣接する公園、(100年余前までは紫禁城の一部)「労働人民文化宮」に引越しさせられた。発生した瞬間は、相当搖れたが、一応起きて事務所としている部屋に行き、若干棚からものが落ちているだけで被害がないのを見届けて、再度寝てしまった。7時半頃一階のレストランに行き駐在員仲間と朝食をしたが、9時頃より避難するから準備するようにと、中国側より連絡があった。中国人(中国からの引揚日本人を含め)や西欧人は地震だと感じた瞬間、外に出る習慣があるので、地震発生時にロビーまで“仮避難”した中国からの引揚者でもある同僚は、「エアフランスのスチュアーデスを含め、欧米人は裸で寝る習慣だと分かったよ!」と自慢げに話していた。
避難所には8人用のテントと簡易ベッドが用意され、バス型の移動式トイレがマンホール上に設置され、食事、電話、理髪、テレックス等の通信サービス要員等ホテル従業員も移動して来ており、殆ど不便はなかった。真夏の為か現場ではシャワーしか手配されていなかったが、「ホテルに、物取りに行く」と言ってホテルに行くと、不思議なことに風呂ではお湯が出たので、風呂入りに行く結果となった。ホテルはボイラーの火は落としていなかった。郵便物の扱いも平常通り、仕事での外出も可能で、タクシーを呼んでくれた。防犯体制は厳重で、在京日本大使館より軽食や飲料水等慰問品が届いた時も、領事等大使館スタッフは中には入れず、避難所の入口まで受け取りに行き、「まともに応対できず,済みません」と、我々が詫びる始末であった。
滞在中の外国人への気配りは昔から素晴らしいものであったが、この時も痛感した。
然し、改革開放が本格化する80年代以降は、居留外国人が増加したこともあり、特別配慮はなくなり、「外賓」との呼称も何時の間にかなくなってしまった。
この地震では死者24万人とも、5-60万人とも言われたが、「自力更生」が強調されていた時代でもあり、外国からの援助は一切受け付けなかった。北京市内でも地震での死者は300人余との街道情報もあったが、第2環状南路(旧市街の南側城壁跡)の南側に並んでいた安普請の古い民家は、殆ど完全に崩落していたのを見届けた(今は高層アパート群となっている)。我々常駐者が確認した限り、主要建造物では故宮は無傷だったが、北京飯店と北京百貨店の上部構造には若干亀裂が生じた。殆どの歩道は避難用仮住まい地区となっていた。多くの市民が日中は平常に生活・仕事をしていたが、夜は余震を恐れて歩道上の仮住まいが寝室になっていた訳です。この仮住まいは有り合せの棒切れやビニールシートで覆われており、行政当局から特に指示や援助があった 形跡は見られず、中国人の最悪時の自活力に感心したものです。
地震の時、日本人の対応は「火を消せ!テーブル等の下に潜れ!」だが、中国人は欧米人同様「すぐ外へ出ろ!」です。レンガ積みの家屋はM6-7クラスの地震でも容易に崩壊するのを経験上、体得している訳です。尚、1972年にもケイダイ(刑のリットウでなくオオザトだが+台)で地震があり、雲南-ケイダイ-唐山を結ぶ線上には地震線があるとの説もあるが、インドや東南アジアの西側は数千万年前まで南方の海上にあり、徐々に北上し昔海底だったチベットやヒマラヤ山脈を押し上げて現在の姿になり、今尚北上しつつあり、停止していないのは地球物理学として、確認されているとのことです。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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12年05月18日 15時18分15秒
Posted by: yanagizawa
4月28日に知るシリーズ(19)として、4月1-21日の三週間、深圳、大連、武漢旅行した主要点を報告しましたが、若干補足します。
1、深圳で目撃した意外な光景が2点あります。
① 宿泊した宝安地区は、今では美しい住宅地区となっていますが、7-10階建のアパート群が沢山あり、他の都市でも同様ですが、問題はその屋上に大きな樹木が植えてあり、「空中林」となっており、各階の間隔と比較して見ると樹高6-7mに達しているのも少なくありません。香港地区と並んで台風も時々襲来する地域であり、暴風に直撃されれば、倒木落下の恐れは大と見られます。友人の話ではロープ等で固定しているから心配ないと言う。その友人(最上階の7階に居住)も屋上に家庭菜園を作っており、トマトや紅薯(葉っぱを食するサツマ芋)が立派に育っていた。又初めて紅薯の葉っぱを食したが、ほうれん草のオシタシの如きであった。兎も角、屋上の利用方法は管理されていない様子だった。
② 昨年開催のユニバシヤードの主要施設、大規模なグラウンドや体育館を初め、街並も公園、街路樹全て素晴らしい印象を持ったが、ある時一般庶民が日常的に利用する市場に行き買い物をした。魚や野菜、果物等雑然と並んでおり、その衛生管理は見るからに悪く、火災等非常時の安全通路の確保等考慮されていない印象を持った。昔なら普通のことだが、街並みとの落差が大きく気になったものです。
2、大連では開発区の西北、20km程度の金州の新たな開発地域を参観したが、道路等インフラ整備はこれからで、市内を含め全体として、もう一つ元気がないとの印象、更なる追記はありません。
3、武漢は水の都で、長江が市内の西南から東北方向に流れ、大きな湖も市内に沢山あるが、長江に架かる大橋も、今では4本が開通され、更に2本が建設中で、一方長江地下を貫通するトンネルも数年前に開通し、2本目も計画中とのこと。又東湖と長江の間には沙湖と言う1x2.5km程度の湖があるが、東湖西岸より沙湖に通じる2km足らずの楚河の畔には「楚河漢街」という、若者好みの大規模な街が忽然と姿を現していた。沙湖にも橋がかかり、東湖西岸から大通りが延びていて長江の下を通過し、漢口に通じている。東湖西岸地区は湖北省政府機関所在地であり、トンネルを出た漢口の北側は武漢市政府所在地であり、行政間の往来の便利さと若者の願望を上手く結びつけたものだと内心感心した次第。
長江一帯の他の都市同様、この一年間で武漢市内はエンジン付きバイク走行が禁止となり、全て電動バイクに代わっていた。迅速な変換に感心すると共に、黒い煙をモクモクと吐き出しながら走るバスは禁止されておらず、不可解な印象を持った。又街角のあちこちに求人広告があり、給与概要を表示していた。主な職種の月給表示は、技術者・技能工3-5,000元、営業・雑役工1,300-2,000元カラオケが5-8,000元、歌舞庁は4-7,000元であったが、友人の話では実際はもう少し低いとのこと。
がっかりしたのは、空港でチェックインした後、安全検査も済み、搭乗アナウンスを待っていると搭乗口が直前に2回も変更されたことです。この現象、昔は時々あったが、何故今尚改善されていないのか、不思議に思われた。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
Mail add. Knhr-yana-@jcom.home.ne.jp
1、深圳で目撃した意外な光景が2点あります。
① 宿泊した宝安地区は、今では美しい住宅地区となっていますが、7-10階建のアパート群が沢山あり、他の都市でも同様ですが、問題はその屋上に大きな樹木が植えてあり、「空中林」となっており、各階の間隔と比較して見ると樹高6-7mに達しているのも少なくありません。香港地区と並んで台風も時々襲来する地域であり、暴風に直撃されれば、倒木落下の恐れは大と見られます。友人の話ではロープ等で固定しているから心配ないと言う。その友人(最上階の7階に居住)も屋上に家庭菜園を作っており、トマトや紅薯(葉っぱを食するサツマ芋)が立派に育っていた。又初めて紅薯の葉っぱを食したが、ほうれん草のオシタシの如きであった。兎も角、屋上の利用方法は管理されていない様子だった。
② 昨年開催のユニバシヤードの主要施設、大規模なグラウンドや体育館を初め、街並も公園、街路樹全て素晴らしい印象を持ったが、ある時一般庶民が日常的に利用する市場に行き買い物をした。魚や野菜、果物等雑然と並んでおり、その衛生管理は見るからに悪く、火災等非常時の安全通路の確保等考慮されていない印象を持った。昔なら普通のことだが、街並みとの落差が大きく気になったものです。
2、大連では開発区の西北、20km程度の金州の新たな開発地域を参観したが、道路等インフラ整備はこれからで、市内を含め全体として、もう一つ元気がないとの印象、更なる追記はありません。
3、武漢は水の都で、長江が市内の西南から東北方向に流れ、大きな湖も市内に沢山あるが、長江に架かる大橋も、今では4本が開通され、更に2本が建設中で、一方長江地下を貫通するトンネルも数年前に開通し、2本目も計画中とのこと。又東湖と長江の間には沙湖と言う1x2.5km程度の湖があるが、東湖西岸より沙湖に通じる2km足らずの楚河の畔には「楚河漢街」という、若者好みの大規模な街が忽然と姿を現していた。沙湖にも橋がかかり、東湖西岸から大通りが延びていて長江の下を通過し、漢口に通じている。東湖西岸地区は湖北省政府機関所在地であり、トンネルを出た漢口の北側は武漢市政府所在地であり、行政間の往来の便利さと若者の願望を上手く結びつけたものだと内心感心した次第。
長江一帯の他の都市同様、この一年間で武漢市内はエンジン付きバイク走行が禁止となり、全て電動バイクに代わっていた。迅速な変換に感心すると共に、黒い煙をモクモクと吐き出しながら走るバスは禁止されておらず、不可解な印象を持った。又街角のあちこちに求人広告があり、給与概要を表示していた。主な職種の月給表示は、技術者・技能工3-5,000元、営業・雑役工1,300-2,000元カラオケが5-8,000元、歌舞庁は4-7,000元であったが、友人の話では実際はもう少し低いとのこと。
がっかりしたのは、空港でチェックインした後、安全検査も済み、搭乗アナウンスを待っていると搭乗口が直前に2回も変更されたことです。この現象、昔は時々あったが、何故今尚改善されていないのか、不思議に思われた。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
Mail add. Knhr-yana-@jcom.home.ne.jp