2012年 3月の記事一覧

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12年03月28日 12時31分41秒
Posted by: yanagizawa
1.私が商社マンだった頃、中国の貿易省傘下の貿易公司のあるベテラン担当官は
 雑談時「どうしても我々中国人は緻密でなく、品質面では多分永遠に日本人には追いつけない。然しビジネスセンスは我々の方が上だろう。何と言っても3000年以上の経験があるから」。3000年以上の経験とは何か?知らない方々も多いと思われるので、
 受け売りだが紹介しよう。文字や出土品で確認できる中国最古の王朝が商朝(日本では殷と言うが)であることは、誰でもご存知でしょう。然し周王朝創始者の武王により、 滅ぼされた後どうなったかはあまり知られていない。中国の友人達の解説では商の人々は国の再建を断念し、持ち前の商才で以って各国と商売し豊になる道を選んだとのこと、 従い商人とは本来固有名詞であったが、いつの間にかビジネスマンを意味する普通名詞に変わったのだと言う。
2.30数間、中国向機械・プラント輸出をして来た私は、上記の実例を嫌になるほど経験させられた。貿易公司の方々は世界各国と取引しているので、経験を通じていろんな 値引き要求の名目を見つけ出した。値引名目は英語の略語で表現される。例えば、A/D、B/D、Q/D、I/D、S/D、E/D等であるが、皆さんは幾つ分るでしょうか?/DはDiscount(値引)と直ぐ分るだろうが、問題は何の値引きか?順番に記すと、AはAmount即ち契約金額が大きい時に要求する特別値引き、次が年間に何度も注文があり(協定を結んで実行するのが一般的)、あるレベル以上の契約高なら、その額に応じて0.5%とか1%とかボーナスを出す(キックバックする)方法、特定の品目に注文が集中した場合、製造原価が大幅ダウンするはずとして、数量(Quantity)値引きを要求、Iとは、Initialの事で初取引商品の場合、Sのサンプル取引での値引き要求も類似、Eとは展示会出品物の買上の場合の値引き要求である。加工設備の契約等では、ユーザー研修の為、日本への招聘を契約条件にする(費用売り手負担)のは一般的だが、時には直接関係のない役人や銀行関係者も含めざるを得なかった。
3.大型設備の場合、「貨比三家」と称して、主要メーカーの設備の性能などの比較表を作らせ、更に比較表間の比較もするという“知能犯”もいた。例えば私が 代理しているメーカー品をアメリカのA社品及びドイツのB社品と比較した比較表を出せと要求、同様の要求はアメリカやドイツの業者にも出されていて、三つの比較表を中国側が比較して、 優劣を見極めようとする訳です。
4.逆に日本の地方の中小メーカーの専務さんの商売上手に感嘆したことがあります。
生産設備関係の買付け代表団を日本に招聘し、メーカー工場視察や日本での使用状況を確認(ユーザー工場で見分)した上で商談となったが、難航した。商談には専務さんも参加していたが、価格で折り合わず、その専務さんは突然立ち上がり「本件なかったことにしてもいいよ、但し御社にお世話になって来たから、先方最終指値受けるかどうか、任せるわ」と、言って部屋を出てしまった。来日したバイヤーと挨拶も握手もせずにである。この結果に客先は大変喜んで、「専務さん,怒って帰ってしまいましたね!コスト面相当厳しいこと分った」と言って、我々商社に対してお礼を言う 始末だった。ところが、一ヶ月ほどしたある日、その専務さんから電話あり、今東京に来ている。その節はお世話になり、いい契約が出来た。お礼致したく招宴したいと電話あり、先方要求に応じたが、その席上の台詞に驚嘆、「先方指値は十分受けられたが、易々と受けたのでは、更に値引き要求してくる心配があったので、一芝居した。兎も角、御社にはお世話になった」との談。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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12年03月24日 19時13分47秒
Posted by: yanagizawa
1.古い話であるが、1972年9月、時の首相、田中角栄氏が国交正常化交渉の為、北京を訪問し、挨拶の中で「昔、日本は中国の皆さんに多大なご迷惑をお掛けしまた」との発言をした為、中国側は官民上げて不満を表明したことがある。一部の日本通の幹部達が、「迷惑をかけた」は日本での謝罪用語であり、「多大な」との形容詞をつけたことは中国語にするなら「非常に大きな災害を与えた」と意味すると解説される事態となったことは、ご記憶の方も居られるであろう。今でも日本の大企業が、何か不祥事があると、記者会見をして「関係者には大変ご心配をお掛けし、又ご迷惑をお掛けし、誠に申し訳ありません」と言って、深々と頭をさげる。中国の在日マスコミ関係者は既によく分かっていようが、直訳すると、深々と頭を下げる行為と言葉は矛盾します。深々と頭を下げる動作の意味は日中共に同じである。昔、北京の貿易公司の担当者に、私自身止む無く深々と頭を下げたことがある。輸出契約したが輸出許可証(E/L)が取れず一年も引き伸ばした挙句、契約不履行の止む無きに至ったからである。先方の担当官はそれまで再三に亘り、「何時になったら、E/Lは取れるのか?」と厳しく催促をしていたが、私のとっさの行動に対し、「分った、分った!頭を上げてくれ!」と、言うことになり、ペナルティーなしで契約解除となったことがある。中国のモラルや風俗 習慣も相当変わり、企業差や個人差も大きくなった今日この頃ですが、参考までです。
2.中国の団結心の弱さは以前も触れたが、再記すると「1対1なら、日本人には負けない、2対2では危うい、3対3以上だと先ず勝てそうにない」とは、今尚その通りであり今後ともその通りであろう。一番分り易いのはスポーツで、個人競技、多くても2人でペアを組む競技では、最近どうしても日本は勝てない。例えば水泳、陸上、体操、卓球等々。然し、瞬時に連係プレイが必要なサッカー、野球、ソフトボール等で、日本を追い越すのは相当難しいと見られる。シュートを決める場面とか、ファインプレイになりそうな場面では、超人的能力を発揮するが、そうでない場面ではどうしても気が緩むので、 中国のチームの監督やコーチを引き受ける日本人は予想外の苦労をされよう。
3.常識や国民性、風俗習慣等の相違から来る問題は多々あるが、次に飲酒問題を述べて、一段落とします。日本人の目には中国人は大変酒に強い人が多いと見える。一方  中国人の目には、マナーの悪い日本人が多いと見える。多くの日本人は焼酎をお湯割りや水割りにして呑むが、この様な習慣は中国には殆ど無く、50度以上の白酒を一気に飲む。公平に見れば日本人が酒に弱い訳ではなく、飲み方を知らないだけである。先ず原則として、飲むのが手酌だったり、無言だったりするのはマナー違反と知るべし(最近では中国人でもマナー違反者がいるが)。飲む時は必ず、「xxxの為に」と言って飲むことです。又、昔、ある中国の友人が健康的な「飲酒三ヶ条」を教えてくれたが、それを紹介しましょう。① 極力早目に脂肪分の多い食べ物を口にする、②必ず水かお茶を用意して貰い、乾杯の直後にはそっと飲み、お腹の中で薄めてしまい、③無言では絶対に酒を口にしない(日本人飲兵衛は乾杯と乾杯の間でも飲むこともある)。
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12年03月22日 13時26分52秒
Posted by: yanagizawa
1.以前にも述べましたが、中国人の特質は陽気で、色は原色を好み、民謡など伝統的な歌舞音曲も賑やかな、長調で軽快なものが多く、自己主張が強い点と併せ考えると アメリカ人との共通点が多く見られます。大陸的、乾燥地帯が多く多民族である特質を現していると思う。日本の民謡や歌謡曲にも軽快且賑やかなのもありますが、叙情的のものや短調のものが多いのではなかろうか。降雨が多く湿度も高く、民族的多様性も少ない「土地柄」が影響しており、朝鮮半島との類似性が見られます。面白いことに日本から遥かに 離れたチベットの歌や踊りは日本と類似しており、ゆったりした曲が多く、踊りもあまり激しく飛んだり跳ねたりはせず、日本の盆踊り類似の踊りが多くあります。平均海抜が4千メートルもある為でしょうか?文革中はチベット民謡やウイグル民謡に“革命的”歌詞を貼り付けた歌を唄い、みんなでよく踊りをしました。ウイグル族や中央アジアの歌舞はリズミカルで激しく飛んだり跳ねたりするものが多く、これも「土地柄」でしょう。
2.プライバシー(隠私権)と他人への思いやり:前回来日研修生より「日本人は見知らぬ人たちに冷淡だ」と言われた話を紹介しましたが、これにはもう少し説明が必要でしょう。多くの中国人にはプライバシーとか人権意識はありません。「隠私権」と言う言葉が使われるようになったのも最近のことです。少し親しくなると給与は幾ら貰っているかとか、 夫婦間のことも平気で聞き出そうとします。最近までは公園のトイレも男女共に仕切りがなかったり、あってもドアが付いておらず、皆さんも使用するのをためらったりしたでしょう。プライバシーが家庭内にまで確立している日本と中国には大きな差があり、 この点日本は欧米などと共通と言えるでしょう。以前石家荘に列車で出張した時、駅前の通りに交通安全を呼びかける大きな看板があり、そこには実に生々しく内臓が飛び出している写真まで貼られておりびっくりしましたが、それを見る中国人を観察すると、眉をしかめる様な人は見当たりませんでした。
3.助け合い・協力精神はやはり、日本の方がずっと上でしょう。東日本大地震への
見舞いや援助額は第一位が台湾、次がアメリカ、韓国と続き、その次が中国だったとのことです。自力更生が強調されていた時代の、1976年7月28日発生の唐山大地震では、中国は何処からも見舞いや援助は受けないと表明し、驚いたものでした(当時北京駐在中だったが、北京でも多数の死者発生、居留外国人への万全の対応や一般大衆の対応等後日報告します)。困っている人や国に手を差し伸べるのは当然だの考えは中国にも定着しているが、先の東日本大地震では、残念ながら親日度では台湾には及ばないということでしょう。一方「故郷に錦を飾る」と言うのは、中国では言葉だけでなく、実施されるものと 受け止められています。企業活動は地域貢献もすべし、と言うのも一般的であり、多くの日系企業はそれ相応の対応をされていると見られます。
常識問題は、もう一回続けます
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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12年03月20日 13時30分42秒
Posted by: yanagizawa
 中国に長く居ても慣れない中国の常識や“習慣”に遭遇することは少なからずあるでしょう。日本での中国人との接触でも、その様に感ずることもあります。順不同でそれらを紹介します。皆さんからも常々気になっている事項をお知らせ頂けると有り難く。
1.東日本大震災後の多くの日本人は、モラルが高く助け合い精神の発揚が多く見られたとして、世界的に広く知られたが、その反対の事柄を最近来日研修生から、指摘された。それは「電車の中で、みんな黙々と携帯を操作しているか、新聞雑誌を読んでおり、静かなのは良いが他人には全く関心が無いようだった。誰か物を落としても赤ちゃんが泣いても無関心で、気味悪かった。中国人ならもっとワイワイがやがやと多少うるさいが、楽しく車中の時間を過ごし、落ちたものは拾ってやるし、赤ちゃんをあやしてもあげる」と言う。一見他愛も無いこの指摘には、深い国民性が反映していると思われる。
2.街や職場の清潔さでは、断然日本の方が清潔で綺麗だと思われる。私は10年前迄白色汚染(公害)と言う言葉は知らなかった。買物用のビニール袋等が大量に街路樹などにかかっていたり、列車の終点駅近くに散乱していたりする情況を指すが、日本でも 完全にゼロとは言えないまでも、多分中国の0.1%以下であろう。台所の使用済水を平気で道路に撒いたり、ゴミの集積所周辺にゴミが散乱したりしているのは、どんなに長く中国と 付き合っても慣れない。世界各国の情況を紹介するテレビ番組が多いが、それらを通して見る各国の情況は、自分が訪問したことのある各国情況と併せ考慮すると、日本は稀に 見る清潔な国と言えよう。この点、日本人は神経質過ぎると指摘した中国人も居たが、「いや、だからこそ日本では刺身を食べる習慣が確立し、品質管理面でも世界のトップクラスとなった」と反論したことがある。
かなり昔であるが、ある中国のバイヤーが「東京丸の内の植え込みは高さも幅も、あまりにも画一的で自然の造形物とは思えず、潤いも感じない」と指摘した。これには脱帽との感をしたが、皆さんは如何でしょうか?公園などの植え込みも冬場に丸坊主にしてしまうが、これもやり過ぎではないかと感ずることもあります。
3.寧夏北端の小さな街に、仕事の関係で2年間滞在したが、秋から冬にかけて兵舎から8名の威儀を正した兵士が隊伍を組んで広場に向かい、中央の高いポールに国旗を掲揚する姿を何度も見かけた。彼等の規定では、毎日日の出に掲揚し、日没に下ろすことになっているとのことであった。寒い季節の日の出は8時前後であったが、学校では幼稚園から国旗に敬意を表明し、国家を歌うのが当たり前になっているとのことで、アメリカも同様であろう。日本だけに今尚「先の大戦」のトラウマが残っており、一部の先生方が学校での諸式典での非常識な行動になっている様であり、一般的にスポーツの大会以外どうも国旗、国歌の扱いには強い愛着心や大切に思う心が足りず、日本は稀なる国になっているのではなかろうか
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12年03月11日 15時04分57秒
Posted by: yanagizawa

前回は黄土高原について紹介しましたが、私が仕事の関係で2002-04の丸2年間生活した寧夏回族自治区の一側面について紹介しましょう(部分的には紹介済みですが)。中国を理解するには、その多様性理解が不可欠と思うからです。
☆寧夏概観:北京の西方1000km弱の乾燥地帯に位置し、面積は6.6万平方キロで中国
各省、自治区の中では最小ですが、それでも日本の東北6県と略同じで、九州の1.5倍もあり、人口は600万で全国平均より増え続けています。大部分が砂漠(若干の雑草が 生えている部分が大きい)と黄土高原の一部です。私の生活した石嘴山市は自治区北端で内モンゴルに食込んでおり、風俗習慣も回族、漢族、モンゴル族三種が混合している印象があります。回族は南方に多く石嘴山市では 大部分は漢族、回族も2-3割で、モンゴル族は極僅かでした。以前にも紹介した如く、土地柄が風俗習慣を決めてしまい、多数派の漢族も寧夏風になっていると言えます。回族は人種的には漢族と左程違いはなく、イスラム教を信仰している(熱心度は個人差大)為に、イスラム風の風俗習慣と言えます。尚血統的区別である人種と民族の区別を混同する人がいますが、民族とは言語等伝統文化や風俗習慣での区分けであり、人種的区別とは異なります。
☆寧夏の北半分、且黄河流域が農耕に適した土地ですが、大部分は未開拓で地中からの塩分が表層に出ていて白く見える土地が圧倒的に広く、7-9月集中の降雨を利用すべきであるダムや調整池も極めて少ない情況です。豪雨があれば流れに身を任す「過水橋」や「過水路」がほとんどで、公道からも洪水による痕跡が沢山見られます(当地の河川は降雨量が多い時だけ流水があり、水無し川)。黄土高原や東方から移民を受入れる他、沢山の刑務所も受入れており、大理石を存分に使った立派な刑務所事務所が公道沿にあります。多くの土建工事等請け負っており、受刑者は“貴重な労働力”となっています。植樹祭の案内があり、社員こぞって参加しようと張り切りましたが、参加せずに協力費を出してくれと、実行委員会より出発直前に言われ止む無く断念したが、合点が行かず植樹予定地に行って見た。 高速道沿の南北に長い予定地には10人乃至20人のグループが沢山作業しており、全て同一の作業服の受刑者だが、何故か暗い顔をしておらず、今尚謎です。
☆ 葡萄泉:私の生活した石嘴山区の西方約10kmには、賀蘭山と言う南北に連なる 山脈(全山ほとんど岩山)の北端が位置しています。土地の人々が特別な感情を  抱いている葡萄泉を一度は見ておこうと思い立ち、タクシーで出かけたが、山脈の北側より西側に迂回し更に南下、岩路を一時間余走りやっと到着した。山の麓に直径1-5m程度の泉が7-8個散在し、僅かな湧き水があり、一本の小川に収斂し更に下方に流れているのみで、日本の山村なら何処にでもありそうなこの泉を 土地の人々は、信仰にも似た気持ちで大切にしていることが分った次第です。
☆石嘴山市は人口60万程度ですが、六つの区に分かれており、私の生活した地区は
外資(外部の省市からの意味)導入に成功し、寧夏では比較的豊で区役所は立派なドーム式会議場を作り、税務署も個別面談室を沢山設ける等贅沢な印象だった。
一方6区を統括する市役所は、40年余前建設の貧相なもので、ある時我々受け入機関である市外貿委主任に、この情況を聞いたところ「建替えるべしとの意見もあるが、莫大な費用がかかるので、殖産興業や民生安定に使用した方が良いとの意見が強く、当分古い建屋を使い続ける積りです」とのことであった。心中泣かせる話であるが、一方市の書紀は無駄な金使いをしていると、人民日報で批判されたことがある。それは私の生活・仕事の地点から50km程度南下した石嘴山市南部にある沙湖と言う、現地では「塞北の江南」と言われる観光地に過大な金を使い、国の管理に属する黄河の水を勝手に流用していると言うものだった。周辺は砂漠であるが、東西南北夫々数キロの小さな盆地に降雨があれば湖になるが、半年以上降雨のない乾燥期には水位が極度に下がるので、黄河の水をポンプで引き込み水位を保っている。この湖には所々芦の集中植生があり、水鳥や渡り鳥も多く、モーターボート、ロープウエイ、駱駝への騎乗、砂による塑像展示等娯楽施設も豊富にあります。国からの間接的な圧力にも拘らず、住民等の強い支持により一大観光地に変貌している。内モンゴルや遠方から観光バスを連ねての来訪者も多い。尚書紀は40歳前後で、他の幹部も同様に若く、北京の中央政府に反発し、地域住民第一を貫いている施策は他にもあり、今にして思えば大阪の橋下市長を彷彿させる。中国の地方自治体もいろいろである。
☆寧夏の周辺は黄砂(現地では沙塵暴と言う)の発生源の一つで、短時間の局部的な
黄砂は日に何度も発生することがあります。そこで女性は殆どスカーフを持つか大きいサンバイザーの付いた帽子をかぶっている。黄沙が近づいたら、スカーフで髪の毛のみならず顔全体を保護するか、サンバイザーを下ろして黄沙の通り過ぎるのを待つのである。 日本人の想像する黄沙と言うより、つむじ風か横殴りの竜巻の様です。
この石嘴山区では、年中ほとんど西風が強く、街路樹(ポプラやプラタナスが多い)は大部分、東側に傾斜しており直立しているのはほとんどありません。
社員との懇親会で女子社員より、「此処には美人が少ないと言われるけど、年中こんな気候なのだから美人になりようがないでしょう!だから若者はみんな華南、華東
地区に憧れるのよ!分ったら文句言わずに呑みましょう!」と、言われたこともある。
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12年03月02日 13時51分55秒
Posted by: yanagizawa
言葉の意味から想像される黄土高原は、実態とはかけ離れたものになります。私は仕事の関係で、1999年4月から00年4月までの13ヶ月間、北京に拠点を置きながら毎月 一週間程度、黄土高原の東南角に近い山西省吉県と言う山村に通い続け、都合60日間 程山歩きをしました。JICAの黄土高原治山技術訓練センターのアフタケアの運営監理を一人で、担当しました。時々専門の技術者や大学の教授が応援に来られ、技術面でバックアップしてくれました。拠点は北京林業大学にありましたが、列車で太原より200km余南方の臨汾まで行き、そこから車で現場に向かうのが体力的には楽なのですが、パートナーの林大の先生方は北京から920kmもあるのに、車で行くのが好きで 止む無く、半分程度は朝6時出発し夜の7時ごろ現地着となりました。太原までは高速道路がありますが、 石家荘までは本格的高速道路で快適ですが、その先の高速道路は 名ばかりで道幅も狭く、頻繁に行き交う石炭輸送のトラックが2台並列運行し、運転手同士がおしゃべりしながらノロノロ運転することが多く難渋しました。太原から南下する道路も一応国道ですが、 相当劣悪で時には工事中でUターンし(手前に案内看板のない時があった)夜の山路を走り、真夜中に現地着と言うこともありました。黄土高原は、私が後年仕事で滞在した 寧夏回族自治区辺りが西北の端に近く、合計60余万平方キロと日本の1.6倍もあるが、広々とした平原はなく、Google Earthで 人工衛星写真を見れば大体分ると思うが、洗濯板の如き情況です。饅頭型、馬の背型、駱駝のコブ型の三つに分類されるとの事ですが、頂上の平坦部は野球場から皇居前広場 程度です。200万年余の間に微粒子の黄土が降り積もり、一方では年に数回の降雨(時には豪雨となる)の繰り返しで、削り取られ深い渓谷が形成されています。住民は 山の傾斜地の僅かな平坦部にも住んでいるが、生活用水は谷底まで天秤棒にバケツを下げるか、トラクターで行き,汲んで来るわけです。谷川の周辺には時には生活に便利と思われる一定規模の平地も見かけましたが、万一豪雨があると流されてしまうので住めないとのことでした。本来50%程度の森林があったそうですが、3-4000年前からの人類文明の発展につれて、伐採され10%程度まで少なくなってしまいました。私の赴任10年前にJICAの治山治水の技術援助に併せ1200Haの植林をしたが、その効果が顕著で、従来水がしたたり落ちる程度だった崖の中腹からの水が、清水となり流れ出る様になっていた。住民と現地政府(村役場)が金を出し合い、100立方メートル程度の貯水槽、送水 ポンプ更に配水管を設置していた。山の上方に3x4km程度の植林をしただけで、10年もすれば落ち葉が保水した水(植樹した部分の下半分は全て直径1m以上の 半環濠として、水の流失を防止している)を密度の高い粘土質の地層をも通過して、絶え間ない清水を供給し始めた訳で、現地住民や関係者は心から感謝していた。一方植林に際して桃、りんご、ナツメ、スモモ、銀杏などを植樹し、経済林としたが収穫出来る様になり、糖度が高く売れ行き好調だといっていた。 黄土高原の土壌は、本来肥沃であり水さえあれば何でもよく育つので、人口10万の吉県で、水窖(スイコウ、Shui jiao)と呼ばれる地下水槽が16,000個も建設されていた。7-9月に数回しか降らない雨水を効果的に保存する為、数キロリットルから 数十キロリットル貯水可能な水槽をコンクリートで、半地下式に作っているわけです。緩やかな傾斜地を利用し、一定面積の土地の周辺に溝と流出防止の土手を作り、一番下が取水口になるように設計、配置している訳で、正に生活の知恵と感心した次第。 冬は暖かく、夏は涼しい洞窟住居であるヤオトン(窯洞、Yaodong)も乾燥地帯である、 現地事情に合致した住居だなと感服した次第。見学した小学校の分校もヤオトンだったが、換気が不十分な様で、少々気になったが!一人っ子政策は全く徹底しておらず、 我々が関係現場を点検する為、歩き回るとあちこちのヤオトンから、子供達がぞろぞろ 顔を出してくるのには驚いた。更に村役場の招待所(かなりひどい旅館だが)周辺には、役場、銀行、郵便局、マーケット等があり、   5-600mの長さの道路の両側に民家も肩を寄せ合っている印象だった。こんなところにもカラオケがあるとのことで、冷やかし半分の気分で、林大の先生方と有る夜出かけたが、あまりの暗さと汚さには閉口した。それでも応対するホステスも居り、聞くと四川省の貧しい農村から出てきたと言う。 平静を装ったが、下には下があるものだと、心中涙が出る思いをした次第です。 「人はどんな環境にあっても生き抜き、より良い生活を求めるものだなあ~」と!
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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