2012年 1月の記事一覧
孔子も重視し、日本とも関係ありそうな古代楽器を紹介しよう。30数年前に湖北省随州市郊外(武漢の北北西160km)で、曾侯乙墓(そうこういつぼ)が発掘され、青銅製の各種生活用品等1万余点が出土したが、その中に楚の恵王熊章よりBC433に贈られた壮大な編鐘と言う楽器があった。大小65個の鐘で構成され小は握りこぶし程度、大は小さ目なお寺の梵鐘程度で総重量は2,500kgもある。複製品が作られて、武漢の湖北省博物館、東湖の中の磨山の楚天台、及び荊州博物館で演奏されているが、架台は三段になっている。この楽器だけで4人が分担し、叩いて演奏している。琴や太鼓などと合奏させて観客に観賞させているが、孔子が楽器を重視した対象は、この楽器と思われる。それは夫々の持ち場の者が、「互いに協調しながら自分の役割を果たせ」と言っているからです。文革中にはこの考えは否定されたが、現在の中国は新幹線を和諧号と命名して、再度強調している。日本で見つかっている銅鐸は、この編鐘の一部が日本に渡来し、音を出す鐘から祭器になったと言うのが私の見方である。編鐘演奏に併わせ舞踊も披露されているが、その衣裳は天女の羽衣そっくりである。湖北省には仕事の関係で3年間滞在し、更に何度も出張したので、観賞回数も10回以上になる。日本人観光団が大勢で入場すると、即興で日本の音楽を演奏してくれる。
越が楚に滅ぼされた後、越の人々は四方八方に逃げたとの事である。一部は雲南省まで逃げて行き、シーサンパンナ(西双版納)のタイ族になったとの説があり、胴長で足が短く、下駄を履き酢漬けの魚や赤飯を食べ、鳥居を作る等、人体的特徴と風俗習慣が、日本に類似している。この説は現地に旅行した時にも聞いたが、越の人々は大量に 日本の九州にも逃げて来て弥生文化を創ったとの説もある。呉も越も海洋を航行する艦隊を持っていたが、特に浙江省東北部近海に広がる舟山群島の漁民達は古来、遠洋漁労もしており、船上に台所を備えていた由(今もその名残はある)。
一方日本の縄文文化は北から南西に、弥生文化は逆方向で発展してきたことは、人口比率の変化にも見られ、気候が現代同様温暖だった4-5000年前には推定総人口26万で、8割以上は東日本に居住していたが、其の後寒冷期となり、人口は7-8万人に減少した。2000年前辺りから、再度温暖化し西日本の人口が急増し、AD2-300年から人口比は逆転し、総人口60万人中西日本が6割となった。4-6世紀の古墳時代に総人口500万余と更に急増したが、やはり西多東少であった。以上は考古学的に判明している由。又漢和辞典を見ると、音訓の読み方に加えて、漢音と呉音の表示があり、上海の友人の言によれば、上海語は日本語との共通発音が多いとのこと。従って、紀元前から華東地区の多くの中国人(出土した人骨の鑑定では男性が多かった由)が、断続的に日本に移住し、縄文人と混血を繰り返し弥生人(日本人)になったことは間違いないと見られる。当然、朝鮮半島からも沢山の渡来人があったが、その多くは 半島での戦乱により百済や新羅から来た者が多く、時代的には殆ど5-6世紀以降である。目に見える多くの文化は大陸の影響を受けてきたが、精神文化面では今尚、縄文文化を受け継いでいるのではなかろうか?特に日本各地に残る祭礼のほとんどが、縄文文化である太陽、河川草木等自然崇拝であり、その象徴である神社が氏神様を含めると優に100万を超えて今尚存在していることが、それを示していると思う。人種的にも縄文系を多く残すのは、沖縄を含む西南諸島と北海道のアイヌ人であろう。結局、人の移動により人種や見える文明は混合するが、更に奥深い精神文明では、結局は定住し続けた「土地柄」に、大きな影響を受けるということではなかろうか?これは、動植物の進化に留まらず、人々の風俗習慣に就いても言えると言うのが、中国各地で生活と仕事をして来た私の結論です。典型的な事例を挙げると、私は夏回族自治区の田舎町(人口7万人)に仕事で2年間滞在したが、本格的な中華料理はなく、土地の人々が中華料理と称するレストランには「漢餐」との看板が掲げてあったが、北京や上海とはまるで異なっていた。台湾人が「つぼ焼きうどん」専門店を開業し、我々数人の日本人には大助かりだったが、半年で撤退してしまった。又朝鮮焼肉店も瀋陽から出店して来たので、我々日本人は大喜びしたが、この店も半年足らずで撤退してしまった。街の人々は最初物珍しさから客になったが、やはり口に合わぬらしく、足が向かなくなったものである。尚、人口の8割は漢民族であり、親や祖父母の時代に入植して来たが、2代目、3代目になると土地柄に染まってしまうとの一つの証拠と思う。更に、困ったのは、私の勤務したJVの副総経理は中国側から出ていたが、彼は「皆さんは、日常ろくな物を食べていないと聞いている。我が女房は料理が得意で、客をもてなすのが大好きだから食べに来い」と、再三言う。毎回断るのはまずいと判断、2回に1回は招待に応じたが、回族風と半モンゴル風で、正直抵抗を感じた。特に羊の丸ごとの太腿肉や調味料に抵抗を感じたが、彼は得意満面、「上海料理や広東料理はまともな人間の食うものではない、奴らはどうしてあんなまずいものを食べるのか、皆さんはなるべく食べないように!」と言う。彼も奥さんも 漢民族ではあるが、幼少時よりこの黄沙の発生源でもある砂漠の町で成長して来た方々であった。土地柄の違いと歴史的な相違点への理解は、異文化理解には不可欠で、その理解がないと、交流が上手くいかず、時には不利になろう。次回は「中国人幹部教育の要諦」に又戻りましょう。
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國と言う漢字も、内側の小さい口は宮殿を現し、それを戈で守り、外側を城壁で囲むのが「国構え」となっていることを知った。その語源に迫ろう。
☆中国の古代史は、伝説とも言われる4000年前からの夏王朝に始まると理解されているが、近年の発掘調査により大きく覆されている。夏、殷(商)、周何れも黄河流域で発達したが、実は更に数千年前から長江文明とも呼ぶべき文明が盛衰を繰返していた。若干例示すると:
☆ 14,000年前には稲作があった。長江中流の玉蟾山(ぎょくせんざん)遺跡や 仙人洞遺跡を中米共同で発掘し判明した。浙江省の寧波と紹興の中間で発掘された河姆渡遺跡でも大量の米穀が発見されC14鑑定の結果、6-7000年前と判明した。日本や朝鮮 半島への伝播も、定説より早く、3-4000年前と見られる。
☆ 都市国家も殷王朝より2,000年も前にあった。城頭山遺跡では、環濠集落となっており、湖北省天門市の石家河遺跡では南北1.3km、東西1.1kmの城壁跡があり、中央部には宮殿跡があった。杭州市北郊外にあった良渚文化と言われる遺跡は宮殿基壇だけで、南北450m、東西700mもの巨大さで絹織物等も出土しているが、殷時代より1000年以上遡る。
以上は日中両国の考古学者、樋口隆康、厳文明両氏と哲学者、梅原猛氏との対談形式の「長江文明の曙」からの引用であるが、他にも沢山の地域ごとに文明があったが、「長江文明」で検索すれば、それらの情況は知ることが出来る。又個別には河姆渡遺跡は日本の古代文明とも関係が深い(人種的にもDNA鑑定等で弥生人と共通する人達だった)ことが分る。黄河文明以前の長江文明は、長江中流域の湖北省下流の江蘇、浙江省,巴蜀(四川省)の順で発展していったが、多くの国々は長江の巨大な洪水や北方の騎馬民族の侵攻により衰亡した。其の後の情況も:
☆ 呉越の長期戦は有名だが、BC473には呉王夫差(勢力範囲は江蘇、安徽省南部及び浙江省北部)が越王勾践(勢力範囲は浙江省と江西省の一部)に滅ぼされて、呉は滅亡。その越はBC334に大国である楚(現在の華南各省、陝西省や山東省の一部を勢力範囲とし、王都は湖北省の江陵市郊外にあった)に滅ぼされた。
この強大な楚も陝西省西部に勃興した秦にBC223に滅ぼされたことは周知の通りである。何故だろか?次回更に続けよう
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この点を理解するのは、現代中国を理解するのに役立つであろう。史実の一断面である王昭君にまつわる話を紹介しよう。王昭君はBC50年頃、湖北省西部の神農架(野人が生息しているとして有名)に近い山村の出身であったが、一方明朗闊達で聡明な女だった。時の皇帝である前漢の元帝が寵した貴妃が周囲の女官共に妬まれ、非業の死を遂げ,元帝は毎日悲嘆にくれていた。そこで国中の役人共は代わりになる美女探しをして遂に王昭君を探し出した。身分が低い為、皇帝の選抜用肖像画に泣きホクロを書き足して献上された。一方皇帝は匈奴との和睦を図る為、匈奴の代表部を長安市内への設置を認め、時には糧食を送る等懸命の努力をした。更に、皇女を降嫁さすべきとの衆議が起こり、皇帝も同意したが誰もやりたくなく、又皇女達も同意する者は居なかった。そこで、王昭君を養女として皇女の身分に変えた上で降下させることにしたが、其の後初めて王昭君本人に目通りさせた。天真爛漫で聡明、且美人であることに驚嘆したが、後の祭りだった。BC33年に王昭君の嫁いだ匈奴のトップである、呼韓耶単于は高齢であり、2年後にはこの世を去り、匈奴の風俗に従い王昭君は単于の長子と再婚した(王昭君はなかなか同意しなかったが)。従来悲劇の皇女と言われたが、そうでもなかった。其の後100年間、平和が保たれた。王昭君の降嫁する前の元帝との会見時、呼韓耶単于は、皇帝の「何故匈奴は時々南侵し、殺戮と略奪をするのか?」との質問にたいし、単于は「モンゴル平原は、寒冷化のひどい気候が続くと、羊も馬もほとんど死滅し、南侵し略奪する以外に生き残る術がない」と訴える。皇帝は「今後その様な時には、十分な糧食を与えよう」と約束した。フフホトの西南郊外にある王昭君の陵墓及び湖北省の生家、双方を私は参観し感銘を受けた。王昭君にまつわる秘話は、漢民族と周囲の異民族との関係を示す重要な要素を含んでいると思われる。現代でも、侵略に備える国防や犯罪に対する防御対策は日本人の目には想像以上に重視されていることを示している。私が2年間生活した 寧夏の田舎町には、ガイジンアパート等なく、家賃も月300元と安かったが、鉄製の防犯扉は付いていた。防犯と侵略は中国理解のキイワードと思うので、更に一回、夏殷(商)より遥か前まで歴史を遡ってみよう。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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中国に常駐し、生活し仕事をしていくと多くの日本人は、ストレスを感じ始め何故、彼等は分ってくれないのかと悩むものです。商社マンとして世界各国と付き合ってきた私には、「日本の常識は世界の非常識」と言う点に就き、日本人の理解を得るのは難しいな、と思うことがしばしばあります。日本と類似するのはイギリスやニュージランドです。共通点は狭い島国だという点です。相対的に地球が狭い惑星になりつつある、
今世紀半ば以降では、むしろ日本の常識が世界の常識になりそうだと確信します。従い 日本人の歴史体験は、やがてグローバルスタンダードになりますので自信を持ちましょう。ところで、日中間の相違点について、徐々に核心に迫りましょう。あまり知られない事例を幾つか紹介しましょう。
☆ 中国には中華思想があると、時々日本では指摘されますが、中国人は自覚していません。例えば仕事の関係で度々訪問したハルピンで、農業機械処の処長(昔一元小姐と言われた一元札にデザインされたトラクター運転手だが)より、「貴方はもっとしばしばハルピンに来るべきです。ハルピンは中国の中心です」と言う。文革が終わった直後でしたが、彼女に言わせると工業の発達した地域は東北地方で、他は全て遅れている。ハルピンから北北西に1000km行けばソ連(当時)との国境、南に1000km行けば旅順であり、ハルピンは中心と言う。寧夏で仕事をしていた時には、此処こそ中国の中心だと言われた。 東北東に3000km弱進むとロシアとの国境で、西に同じ位進むとカシュガルでタジキスタンの国境に近い。従って寧夏は中国の中心である。又15年前に武漢で仕事をしていた時には、此処こそ中国の中心と何度も聞かされた。中国西部や東北地方は論外の地域で、北京と香港の中間が武漢であると言う。一方上海では、此処こそ唯一の世界的な都市であり、全中国を牽引する都市であると言う。
☆ 長い歴史を有する中国だが、日本の如く実質上唯一の王室を保持し続けるということはなかった。日本の天皇も昔は大王と呼ばれたが、古代においては皇族内部で抗争はあったが、王朝が交代する程にはならなかった。軍事、政治的に覇権者は交代したが、天皇の地位を本格的に脅かすことはなかった。ところが、中国では夏殷以降だけでも100余の王朝が乱立した。4-5世紀の東晋十六時代、唐朝後の五代十国時代等を想起し、歴史年表を見れば容易に理解できるであろう。
☆ 万里の長城は累計延長が8000kmに及ぶと言われ、秦の始皇帝の建設から始まると言われることが多いが、実はそれより遥か以前から存在する。北方や西方の異民族の侵略に備える為に建造されたのは間違いないが、何故こんな馬鹿げた建造がされたのであろうか?
中国人をより正確に理解するには、更に歴史を遡る必要がありそうである。
王昭君にまつわる秘話を含め、次回で紹介しよう。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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有史以来交流のある中国だが、日本との相違点は予想以上に多い。何故だろうか?
家庭教育で多くの中国人の親達は、子供に対して「何が言いたいの?言いたいことは、もっとはっきりと言いなさい!友達等分ってくれない時には何度でも言いなさい!」と指導しているとのことです。「人様に迷惑かけてはだめですよ!後ろ指を差される様な言動は慎みなさい!」と言うように、指導する日本の家庭とは大いに異なります。中国人にとっては先ず、自己主張ありきでむしろアメリカ人に類似しているかも知れません。周囲を気にしつつ発言する日本人とは大違いです。面白いことに政治、特に外交関係でも類似の情況が見られます。
私の中国との50年に及ぶ交流の中から、代表的事例を紹介しましょう:
☆ 中国人の協調性を高揚する為、中国版新幹線を一律「和諧号」と命名し全ての客車の先頭に「和諧号」と大書したが、誰もそうは呼ばず「高鉄」即ち高速鉄道列車と呼んでいる。協調性を求められるのが嫌なのかも知れません。
☆ 以前よく聞いたのですが、「一対一なら中国人は日本人に負けないが二対二では危うい。三対三以上では全く歯が立たない」国全体のGDPが日本より遥かに小さかった時代の話です。
☆ 自己中心主義の中国人が圧倒的に多い状況は、車両の通行状況を観察するとよく分かります。法令的には大通り優先、直進優先のはずですが、いち早く首を出した方が優先となっています。譲り合いの状況に遭遇した時などは、感激して感謝の声を上げるほどです(大連には何時でも他人の車に先を譲るタクシー運転手がいて、感激したものでした)
☆ 中国人の9割以上は漢民族との統計ですが、他の少数民族の分類方法とは異なる様です。人類学的には広東や福建の人達は、むしろベトナムやミャンマー等東南アジアの人達に類似しています。平均身長も日本人より低いでしょう。
一方山東人や東北人(特にハルピン人)は顔付きも、南方とは異なり、平均身長は日本人よりかなり高いです。喧嘩の仕方も、南方は「先ず殴る」、華中地帯では「口論から殴り合いになる」、華北では「どんなに口論しても殴り合いにはならない」と言うそうです。その様な傾向はあるな、と言うのが実感です。従い、漢民族と言うのは欧州民族と言うが如し、と理解した方が良さそうです。方言しか知らない人同士では、上海人と広東人では意思が通じないでしょう。この様な状況は他地域同士でもあります。
☆ 「彼は四川人だが、俺は山東人だ」と言うような紹介を受けたことは何度もあり、更に中国人同士「何人」か、紹介し合う情況を何度も見ました。中国は天下であり、初対面同士は「お国」紹介もする訳です。
次回更に続けます。
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