2012年 6月の記事一覧

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12年06月09日 15時10分49秒
Posted by: yanagizawa
中国の改革開放が進展し、実効を上げ始めたのは深圳等経済特区以外では90年代に
入ってからでした。従い私が商社マンとして最後の北京駐在だった1985~1991年の頃は、まだまだ国営企業が経済活動の主要部分を占めており、国営企業を管理する行政機関が、何処にどの程度予算を配分し、何を購入するかの決定権を握っていました。国営と言っても国の省庁が直接管理するのは一部分で、大部分は地方の省・自治区に移管し、更に小規模なら、その下の市や県に管理を移管していました。この基本的構造は今も変っていないが、外資系企業を含む民営企業の比率の増大が、大きな変化点です。

 外資系企業の買付けは主として、投資した外資側企業やその関係企業が調達するので、商社としての顧客開拓、販促活動対象には適していませんでした。従い、販促活動(上)で述べた施策により各省庁とのコネ作り、更に地方政府(自治体)の関係部署を紹介して貰うことが重要な活動になりました。逆に外国企業と関係作りに奔走する中国企業も急増し、我々商社の現地事務所ではその応接に翻弄されましたが、客になりそうとの感触を得ても即断せず、関係官庁の親しい“友人”に意見を求め、更に「百聞は一見に如かず」で、その“潜在的顧客”の工場や研究所を参観するようにしました。そこまで行動すると、かなり情況が分ります。工程の前後関係上無理な、又は無意味な設備を買付けしようとしている場合、更に設備価格を中国産並みに見て予算措置を考えている場合などもあり、行動しながら顧客の選別もした訳です。

 私の経験上承知している分野は、機械設備です。文革前は研究所や大学の研究室が主な顧客である理化学器械を扱い、徐々に工場の生産設備に重点を移して行きました。
生産性や精度のひどい設備、生産管理や在庫管理のひどさには何度も驚きました。例えばテレビ等家電製品に必要な電子部品等、従業員が2,000人も居て、生産量は日本の従業員、100~200人の中小企業の1/10以下と言う事例も沢山ありました。一方部品の規格が不揃いにも拘らず、基板への部品自動挿入設備を「勉強の為」として、実際に購入された事例もある(数十人の作業員が錆取りや足の長さを手作業で揃えた)ので、必ずしも日本的感覚では仕事にならない面もありました。

 現在中国での企業活動の自由化は大きく進展しているので、販促活動も容易になったでしょう。従い“昔語り”に属する話はこの辺にしますが、逆に以前は殆ど考慮不要だった、「与信管理」が大きな問題で信用度が不明の場合は、前金取引にならざるを得ないでしょう。現地調達に関しては、近日中に中国人幹部社員教育シリーズで、参考事例を紹介致しますので、ご一覧下さい。

 ご意見、ご質問など歓迎いたします。ご遠慮なくメールして下さい。

 柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
Mail add. Knhr-yana-@jcom.home.ne.jp



12年06月04日 14時46分52秒
Posted by: yanagizawa
 対中輸出業務に35年も従事してきた私ですが、中国での需要調査や販促活動については、今まで一切触れませんでした。1995年に商社を離れてから、随分時間も経過した上、中国の経済活動も様変わりした為です。然し、購入決定権を有し、財布を握っている処(人や部門)への接触により、需要動向をキャッチし、販促活動を推進することが重要と言う点では、古今東西変わりがないと思うので、昔語りになってしまいますが2回に分けて、参考までに披露しましょう。
1.ポイントは<常識にとらわれず、競合他社が想像もしない、又は軽視しているところを重視した>の一言に尽きます。1980年代以前、輸入品の顧客の大部分は、国営企業や行政管理下の組織(大学、研究所等)が占めていました。又買付け窓口は国の対外貿易省直轄の20未満の貿易公司(会社)が独占し、地方には分公司があっても対外的買付け権はなく、1978年末に発表された改革開放政策により、段階的に分公司も営業権を獲得しました。更に貿易省以外の40余の国の省庁傘下にあった商社類似の公司も、対外貿易に参画できる様になった。私が上海に代表事務所を開設、初代所長となった1980年頃より各省庁傘下の公司の地方分公司も対外営業権を取得した。2-3年で対外買付公司は、20社未満から10倍以上に増加した訳です。これは大きな分岐点でしたが、その前の1972年9月の国交回復前後も大きな分岐点でした。国交がない日中関係は民間交流時代で、我々商社マンは建前上政府機関への出入りが出来なかった訳です。

2.多くの商社は数少ない貿易公司への売込みに集中していましたが、世界中から売込みがあり、先方は役所仕事であり予算付の買付依頼がなければ動かず、カタログや技術資料を渡しても、資料室に回送されて保管されるだけでした。潜在的顧客は自分の方から貿易公司に出向き、資料室に入り分野別に保管された資料を探す情況でした。一方1960年代初頭から数は少ないが、学術訪問団の来日があり工場見学等の折、名刺交換するとxxx学会の身分になっているが、聞くと実際は省庁の上級役人である場合が少なくありませんでした。従い北京や他の都市でも学会名義で会って頂き、販促活動をした次第です。その前から、当時取り扱っていた理化学機械は英国出版の中国の研究所や大学の名簿的な書を利用してD/M方式で宣伝活動をしていましたが、直接面談できる機会を徐々に増やして行き、文革中でも続けました。スパイの嫌疑をかけられないよう、北京飯店等ホテルのロビーや会議室等人目に付くところで面談する様にした次第です。我々の身元引受人である中国の貿易促進委員会には国家科学技術委員会からもスタッフが出向しており、彼等と相談し技術交流と称して製品の宣伝活動をしました。
80年代以前の中国では、外国の情報が極度に欠乏しており、彼等は日本の商社や輸出志向のメーカーの宣伝活動と分っていても、この“技術交流”には喜んで参加したものです。当初、多くのライバル商社は、予算が付くかどうかも分らない活動と看做していましたが、やがて真似する様になりました。又競合他社に覚られない為に、団体主催の展覧会出品以外に、単独で小規模な展示会も再三開催し、販促活動を補強しました。
更に形式にとらわれず現地にアフターサービス機能の設置もしました。-続く- 
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
Mail add. Knhr-yana-@jcom.home.ne.jp



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