2019年 10月の記事一覧
☆847-9-19より前記した如く鴻臚館に一時的に住むことになったが、官庫より絹布八十疋(ひき、長さ4丈の単位、現在の布地一反の長さ5丈の八掛けで12.44m、幅は一尺八寸即ち約56㎝;ほぼ80反)及び木綿200屯(当時の屯とは6両で、1両は37.3g故1屯=223.8g、200屯では約45㎏)を借り出して、船上の44人に冬衣を支給したと記録、円仁の配慮と見られる。
円仁等五人は速やかに入京せよとの太政官符(命令書)が来たと記している。
☆11月25日藤原良房大納言宅に於いて報告と記し、11月28日~12月3日、竈門(かまど)大神、住吉大神、香椎(かしい)明神、等々に転読(経典の一部を読む)したと記録している。
日本書院の歴史年表によると、この年即ち847年10月僧円仁帰朝、同12月には「入唐求法巡礼記」成るとある。翌848年3月29日性海、性正等率いて、延暦寺に戻ると僧侶など雲の如く参集し大歓迎され、経典や絵画も称賛された。又この時期に法華懺法(懺悔方法)改変し、僧侶の修行完遂後の灌頂(頭上に香水を注ぐ儀式)に対して朝廷の許可が下りた。同年6月伝燈大法師の位が授与され、同7月には宮廷での仏事を担当する内供奉(ないくぶ)に任じられた。
☆849年5月宮廷主催の一大灌頂儀式が、円仁を導師として挙行された。誓水を飲む者一千余人
に達し、大伴善男が勅遣され一千の僧侶が供せられた由。大曼荼羅、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅も複製された。850年文徳天皇即位と共に様々な密法を修正するよう委嘱された。詔勅を得て
総寺院を建立し、主管の十四の僧を定めた。851年8月には中国五台山の常行三昧を叡山に移し例時作法を始めた。又仁王会の御前講師となった。「金剛頂疏」七巻を作った。
854年4月には天台宗第3代でもある延暦寺座主になる勅命を受けた。翌855年には「蘇悉地経疏(そしつちけいそ)」七巻を著す。
856年3月文徳天皇、皇子等に両部灌頂を奉授し、同年9月には東宮、女御、藤原良房等にも灌頂を授けた。翌々年858年3月にも天皇及び皇族など十余人に大戒を授け、灌頂を奉授された。
859年清和天皇に菩薩大戒を授け、素真の法号を奉った。860年4月延暦寺で舎利会を始めた。
861年天皇から下賜された造料で五台山霊石を五方に埋めて文殊楼を作り、10月に落成した。
☆863年10月18日発熱、病床に伏す。864年1月13日諸弟子に八か条の遺戒を残す。翌日、14日遷化(高僧の死の意味)。翌月の2月16日墓前にて法印大和尚位を下賜される。同年10月文殊楼会が行わる。866年7月14日延暦寺総寺院千部法華経が墓前に捧げられた、同会場に勅使現れ円仁に慈覚大師及び伝教大師の諡号(死後贈られる尊称)が下賜された旨告げられた。尚、822-6-26 遷化の最澄にも円仁と同じ日に伝教大師の称号を下賜されたが、死後44年を経ていた。空海に至っては弘法大師の諡号を下賜されたのは、遷化後86年を経た921年であり、当時円仁への評価が抜きん出ていたことは明白であるが、上記歴史年表には記載なく、現代との評価の違いは明白である。
円仁に関連する記録は更に沢山あるが、一部のみ追記すれば888年には「延暦寺前唐院及び赤山禅院建立」、916年2月には「円仁本願の白檀の無量寿仏像を作り、金字の金光明経を写す」とかがある。以上にて円仁に関する要約報告を終えるが、この時代中国ではあまねく仏教が普及し、かなり堕落していたが、日本では益々盛んになる情勢下にあったと思われる。後年延暦寺は織田信長により焼き討ちに遭うが、円仁の時代からは七百年も経過しており、円仁が唐で見聞した教訓は薄れていた側面もあったのではなかろうか?
硬い話を此処までご覧頂いた方々には、心から感謝、次回からは現代版に復帰致します。
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