2017年 7月の記事一覧
中国問題に大変熱心だった日本の“左翼勢力”は現在寡黙になっている原因について、先ずは日本周辺の情勢を概観してみましょう。
1、 1960年代の北京駐在時代に沢山の解放闘争映画や舞台劇を見せられたが、解放闘争の相手の主役は、ほとんど国民党軍や大地主であった。後日毛沢東は「日本皇軍が国民党軍と戦ってくれたお陰で、国民党軍が弱体化しその後の解放戦争では解放軍に有利になる影響を残した。 皇軍には感謝せねば!」とのジョークを言ったほどである。然し時代は変化し経済大国の日本に、中国が外交・軍事を含め総合的に取って代り、優位な関係を強化しようとし、主敵は皇軍になった。一方では一国二制度の形式により台湾を抱き込みたいとして、映画やドラマでも最早国民党をあまり攻撃するのは得策ではないとの思惑も見え見えである。
2、 北朝鮮が1950年6月25日半島南側に侵攻し、中ソ両国が支援したが、米国の支援により北朝鮮の野望は達せられず、韓国の独立となった。又ベトナムでは南北に分かれた内戦があったが、実質的には米国と北ベトナムとの戦争だった。1975年北ベトナムはサイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させたが、今や米越は友好関係となった。
3、 更にソ連(25年前ロシア、その他に分解するまで)、中国、韓国等は、日本の防衛力は弱ければ弱い程好都合な為、日本の再軍備に反対し続けていた。国内でも社会主義諸国は平和勢力であり、社会主義体制こそ日本のあるべき姿と信奉する政治勢力は、「安保反対」と激しい政治闘争を続けた。特に1960年の同条約改定期には全国的な闘争が展開され、全学連のデモ隊は国会に乱入、女子学生が死亡する事件まで発生した。
4、 現在の中国は恰も日本との戦いで勝利し独立を獲得したとか、韓国でも日本との併合状態からの脱却の独立闘争により、独立国になったと思い込んでいる人々は少なくない。日中戦争での対戦相手は中華民国であり、国のトップは蒋介石だった。毛沢東率いる共産党軍(解放軍)は当時、日本では「共匪」と呼ばれていた。日本の終戦4年程後の1949年10月1日に新中国が誕生した訳で、それまで国民党軍と共産党軍との間で広範な地域で熾烈な内戦が続けられ、勝利した結果新中国になったというのが、歴史的事実である。
5、 一方1945年8月15日の終戦の日より1951年9月のサンフランシスコでの講和会議で米国と平和条約や日米安保条約に調印するまでの6年間、日本はマッカーサーを総司令官とする米国の占領下にあり、支配されていた。その様な状況下で米国の指導により、日本国新憲法が制定され1946年11月3日に公布し、半年後の翌47年5月3日執行となった。戦後も72年も経過すると、当時の状況だけでなく、その後の状況の理解にも大きな誤解が生まれて来るのは止むを得ないかも知れない。特に日本人の大多数が戦後生まれであることや中国、韓国などの意図的な歴史認識をあの手この手で示し続けているのも誤解の原因である。
6、 最近憲法改正問題が論じられているが、本来ならば米国と平和条約が締結された後、速やかに改正への動きを開始すべきであった。何故なら「日本の平和維持は我々米国が請け負い、その代わり二度と我々に歯向かえないようにして置こう」との思惑の下に新憲法が制定されたのは明らかであり、戦後70年も経っても尚且つ日本の安全保障、平和維持を請け負うことに同意する米兵の母親や夫人はどれ程いるだろうか?
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先ず最近の出来事と小旅行から、中国の本質を示す若干の事柄を報告しましょう。
1、5月下旬に現地知人達に会う為大連に行った。3年間生活した開発区だが、市街地の環境保全が改善されているのを目にした。それは街角にあまりゴミ箱を置かず清掃要員も見かけなかった。1960年代は日本より遥かに清掃が行き届き、街を汚す人達が少なかったので、この良き習慣が復活するのかなと思った。
2、がっかりしたのは、開発区のセンターとも言うべき開発区管理委員会(区役所相当)や安盛ショッピングセンター等がある大きな交差点は地下道で縦横に繋がっているが、設置されているエスカレーターは長期間故障したまま放置されて、汚れたままだったことです。公共施設のメンテナンスがなってない悪弊の代表的なものでしょう。さほど離れていないスポーツ公園が立派に整備維持され多くの老若男女に利用されている状況を考慮すると残念でならない。
3、歩道が広いこともあるが、車の増加によりその歩道は車だらけで、公共ルールを守らない悪習の一つにもなっている。20年前の武漢の元秘書は、ビジネスで大儲けして、現在市街地にある森林公園のようなところのマンション(部屋の中に階段があり2層になっており、ベランダが庭園となっている)に住む富裕階層であるが、自分の駐車場が7-80m先の地下にあるので、不便として殆ど使用せず、階下の通路に駐車している状況である。大多数の人々は自分にとり都合が良いかどうかで物事の判断をして生活している。斯様な状況の改善は道遠しの感。
4、最近、スパイ容疑で拘束される邦人が増加しているが、このような状況は文革中にも多発した。当時逮捕された日本人の殆どは思想的に中国に近いと見られていた連中であったが、個人的な交流は禁止されていた時代であった為、半ば同志であるとの思い込みや“知り過ぎた外国人”になってしまったことが原因であった。更に思想的に近いが故に、かえって紅衛兵の過激な思想を批判し、激論を戦わした為密告された人達もいた。昔から言われていたことだが、勝手に軍事施設には近づかず、軍人や空港、港湾、大型橋梁の写真を撮ってはならず、中国での言動には今なお細心の注意が必要である。
5、こう言う私も長年中国で仕事をしていて、嫌疑を受けたことが2回ほどある。文革時代ではなく、
鄧小平の改革開放の大号令が出た後ではあるが、第1は北京の市街地西北部の何の変哲もないところにタクシーで行って写真を撮ったところ、3日後我々の生活面での支援機関でもあった中国国際貿易促進委員会対外連絡部のスタッフから、○月○日xxxに行かれたようだが、どんな目的だったのかとヒアリングを受けた。「日本の取引先の担当者の祖父母が昔住んでいたところだが、現在どんな様子か見てきて欲しい」との要望を受けた為、出向いて写真を撮ったもので、他意はなかったと説明し了解を得た。もう一件は北京郊外にあったユーザー工場の技師長(総工程師)と仕事を通じて親しくなったことから生じた。商談中に今後とも相当量の買い付けがあるから、価格面で特別配慮を頼むと言われ、一方個人的に「息子が日本に留学するので、経済的に協力してくれ」とのことだった。互いに配慮し合うことで合意したが、後日機密情報取得との嫌疑をかけられた。買い付け情報の事前入手は一般的商業活動の一環である旨主張したが、それを証拠立てる文書が欲しいと言われ、商社の営業マンの一般的活動の事例など文書にして提出し、事なきを得た。尚、この時の相手は国家安全部の担当者だったが、元々は国際旅行社勤務で、中国国内出張時に切符の手配等頼み旧知の間柄だったことも幸いだった。
中国当局の情報活動はロシアや米国と異なり、一般的組織や会社(公司)にまで細胞組織があるので、くれぐれも注意が必要である。
昔は中国通で多言だった“左翼”の連中やメディアが今では寡黙になっている理由等、次回私見を披露しましょう。
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