2017年 1月の記事一覧
中国地図を見ればすぐ分かるが、寧夏回族自治区の主要部、北側1/3は内蒙古の西南部に食い込んでいる。10-12世紀に西夏王国の都として栄えた現在の銀川もその中にある。この辺では黄河が西南部(甘粛省、海抜1,200m程度)から東北方向(内蒙古の烏海市方向で海抜1,000m程度)にゆったりと流れている。300㎞も下ると包頭市郊外だが、更に200㎞余り東進し、陝西省と山西省の省境を南下し始め、河幅も狭くなり流れも速くなる。旧五十元札の図案にもなった壺口の滝(吉県西部)もその南方にある。
1. 寧夏回族自治区の版図内でも、銀川以北は回族的風俗習慣と言うよりはモンゴル(蒙古)風の色彩が強い。河原や砂漠の一角にあるモンゴル風レストランで、接待を受けアルコール度数の強い酒を強要されたことは何度もあり閉口したものだった。風俗習慣も周囲に影響を受けることを示していると言えよう。イスラム教徒だと名乗っていた会社の品管課長は優秀な女性幹部だったが、髪の毛を隠さず酒を飲む愛煙家でもあった。
2. 一方、自治区南方の固原市は黄土高原地帯に属するが、風俗習慣的に中国南部のシーサンパンナ(西双版納)と同じことを、よく利用したタクシーの女性運転手から聞かされた。それはどちらも女性は大変働き者だが、男性は怠け者で酒飲みが多く、賭博と女を抱くことしか興味がないと言う。雇用促進のため政府(地方自治体)が金銭的に援助しても、賭け事に使ってしまい無駄だったとのこと。北寧夏でも毎朝の通勤時に街角で大勢の若者達を見かけたが、日雇いの仕事を探しており、継続勤務は希望せず多少の小銭を手にすれば、飲むか上記の如き方法で使ってしまう連中だった。…失業者が多いにも拘わらず、人探しは容易ではなかった。
3. 私の職場があり生活した石嘴山区は内蒙(モンゴル)に食い込んでいる北端である為、モンゴル風が強く、「漢餐」との看板を掲げ中華料理だよと強調したレストランも沢山あったが、似て非なるものだった(尚別途訪問した内蒙包頭市には正真正銘の中華料理店はあった)。只外食は大変安かったので、朝食以外殆ど外食だったが、時々日本から出張してくる技術者に料理の得意な者が居て、親しくしていたレストランが調理用具とガスコンロをタダ同然で使わせてくれたので、その出張者の来訪はありがたかった。瀋陽から進出のレストランが半年足らずで撤退してしまったことは以前紹介したが、ケーキも製造販売するパン屋さんの進出は現地でも歓迎され定着した。毎月その月に誕生日のある従業員を祝うため、デコレーションケーキを会社としてプレゼントしたが、大人気だった。スーパーも進出し一号店となったが、日本食や日本の調味料は置いてなかった(出張者が日本より持参した)。
4. この石嘴山区は低所得な地域だったが、物価は安く夕食は酒代含め一人10元未満だった。4-50km離れたところをタクシーで往復しても5-60元、マッサージは10元、理髪も3元で毛髪を染めても10元だった。5元で買ったスカーフは今なお愛用している。よく行ったカラオケ店は個室よりホール式の方が面白く、見知らぬ中国の青年たちと歌う曲をリクエストする等、交流の場にもなった。時にはアツアツのカップルの女性客とダンスをしたこともあった。
2004年夏には、2年間の契約を延長せず石嘴山区から帰国、翌年1月からは上海進出の自動車関連企業の初期手続きや諸手配に従事、次回その半年間を若干紹介致します。
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1.中国には55の少数民族が居ると言われるが、少数民族の比率が大きい地域では、彼らの伝統的文化、風俗習慣は特に尊重され、自治区と称される建前となっている。然し実際には漢民族等の入植が時間をかけて推進され五つある自治区の状況も一様ではない。各地の概況は:
① チベット自治区:面積は日本の3倍強だが、人口は僅か260万程度で九割以上はチベット族である。チベット族は青海省や四川省などにも多数居住し、全国では500万人程度に達する。チベットの平均海抜は4,000m弱と高く、入植が進まぬ一方時々民族紛争が起きている。
② 新疆ウイグル自治区:面積は日本の4倍強だが大部分は砂漠で、人口は1,800万弱。漢民族とウイグル族夫々45%程度で拮抗し、西南部のカシュガル等では度々紛争がある。
③ 内蒙古自治区:面積は日本の3倍弱だが、人口は2,400万、漢民族比率は既に八割近く、満州族等他民族も多く、モンゴル族は200万程度で、民族紛争も小規模にしか発生しない。
④ 広西チワン族自治区:東西を広東省と雲南省に挟まれた、日本の本州程度の地域に4,700万の人々が居住し、チワン族は1,500万に達すると言われるが、民族紛争は聞かれない。
⑤ 寧夏回族自治区:面積は九州と四国を合わせた程度で、人口は600万だが、回族は二割強である。日本の平安時代から西夏王国として隆盛を誇り、領域も日本の2倍近くあったがチンギスカンに王都(現在の銀川)の人々全員が虐殺され、滅亡したと伝えられている。人種的には広い意味では漢民族と同じだが、イスラム教を信仰し、昔は6000余の独自の文字を持っていたが、未だ完全には解読されていない。
2. 中国では統一を守ることは、どんな状況下でも餓死者を出さないことと併せ、為政者の最大使命と言われる。然し、ウイグル族などは歴史を紐解けば有史以来、統治する王朝は数十回も代わっている。満州族の如く吸収して漢民族に同化してしまうのが、願望かも知れないが、北京から派遣される為政者(書記等現地政府首脳)は北京の顔色を窺いながら統治するのか、現地の人々の願望を満たすことを優先するのか、難しいところである。又入植させられた漢民族も3代目、4代目になれば自然に現地化してしまい、北京の思惑通りにはならない側面もある。人も動植物も、生きとし生けるもの全ては環境に影響を受け支配される証左である。
3. 石嘴山市人口は70万だが、面積が4,700㎢と埼玉県より三割近く広く、主要市街地は六か所に分散しており、夫々が20-40㎞も離れている。私が仕事で居住した石嘴山区は最北端に位置し、外資導入(自治区以外からの意)に熱心だったが、外国からは殆どなかった。市の書記楊春光氏はお殿様的人物だったが、この辺境の地をこよなく愛し、古ぼけた役所建屋を使い、市歌を自ら作曲、2003年には都市計画の参考にとアメリカ視察、その啓示録として、「好山好水好設計」と題する写真集を発行したが、何故か山口県の錦帯橋の写真(遠景にお城が見えすぐ分かる)や西欧の建造物も掲載されている。内部参考資料なので気にしない様子。市民が喜べば国の管理の黄河から沙湖に水を引き込んだり、接客中に市のテレビ局に電話し、突然市歌を流させたり、文革中は幼児だった為、元“紅衛兵”だった私に当時の紅歌を歌うよう強要することもあった。愉快な人物だったが中央政界での出世は眼中にないように見えた。
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前回予告した2002-2004年の2年間仕事の関係で滞在した石嘴山(シズイサン)は、砂漠の中の街であったが、場所は北京から直線距離約800km西方に位置し内モンゴルに鳥の嘴が突き刺さった様な地形で、回族(現地では回民と言っていた)、モンゴル族、漢民族夫々の風俗習慣が混合していた。私の居住したアパートの3階から東北方向1㎞余先に内モンゴルに通じる黄河大橋が見えた。街の西方10数キロ先は南北に連なる裸山の賀蘭山と言う山脈の北端でもあったが、この地域では良質の無煙炭を産するので、石炭関連工場が沢山あった。空気は悪く、全国600都市の中で悪い方から4番目に空気が汚染されていると現地の連中は自嘲気味に言っていた。
① 年中西風が強く吹き荒れるので、南北に通じる道路に植えられているポプラ等は殆ど45度以上東側に傾斜していた。又黄砂(沙塵暴と言う)もしばしば吹き荒れたが、大体は短時間だが、いざと言う時には女性の殆は帽子の長いつばを下すか、ストッキングで頭を被った。西、北、東は全て砂漠だが、土漠と言った方がよい印象で、7-9月を中心に年間400mm程度の降雨があった。完全な砂漠ではなくパラパラと雑草も生えており、その中には髪の毛状の髪菜(金持ちになると言う意味の発財と同じ発音なので、縁起担ぎに食される)と言う野草が乱獲されたので保護対象野草に指定されていた。食べたことあるが美味しいものではなかった。
⓶ 南方100㎞にある銀川市に通じる道路は有料の高速道路であるが、利用率は極めて低いが、空港が銀川の東側を流れる黄河の更に東側にあるので一時間余で行け便利であった。高速道路の両側をよく見ると、1/3程度は農地に利用されており、特産品のクコ(枸杞)の栽培も沢山見られた。然し大部分は白く塩を吹いてお入り、お世辞にも良質な土地とは言えないが、こんなところにも黄土高原から沢山の入植者が居るとのことであった。銀川を少し南下すると黄土高原の西北端に出るが、2年前には黄土高原の東南端に位置する山西省吉県で仕事をしていたので、黄土高原と黄河にはご縁があるなあ、と感じ入った次第。尚。黄河が流れる石嘴山―銀川の東側一帯は海抜千m程度の比較的平坦な高原であり、黄河は渤海湾の河口からに2000㎞程度上流に位置する。周知の如く黄河も下流では天井河になっており干上がってしまう。
③ 職場と居住地でもあった石嘴山区から、南西方向40㎞に位置する大武口区には石嘴山市政府があり時々出向いたが、びっくりすることが二つあった。水無川が沢山あるが、洪水とも言える濁流の痕跡が道路の両側に沢山見られた。橋は過水橋(日本では沈下橋と言う)、低いところは過水路となっていた。溜池や貯水湖を作ればもっと良質な農地を増やせるのにと心中思った次第。道路脇には大理石で作られた巨大で立派な○○監獄(刑務所)と云う看板が何か所か見られたが、想像される様な暗さはなく、土建会社の如き役割を担っており、どうやら営業拠点でもあった。その実態は、以前紹介した如く植樹祭への参加を突然止められ寄付金納付に変更させられたことと相通ずるようである。
④ この石嘴山区の風俗はモンゴル風又はイスラム風が主流であり、人口比率では漢民族が多数ではあるが、彼等の大部分は2世、3世時代で既に現地化してしまった(但し本人達にその自覚はない)。瀋陽から焼肉店が進出したが、暫くすると客が入らなくなり撤退してしまい我々日本人はがっかりした。台湾から進出の料理屋も同様だった。漢餐と言う看板の中華料理屋もあるが、似て非なるもので、本当の中華料理屋はなかった。北京ダックの店だけは本物に近い味がした。
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