2012年 10月の記事一覧
私は元商社マンですので、多くの国々と交流して来ました。そういう私の体験から判断すると、日本も中国も世界史的に見れば特異な歴史を有している国ではないでしょうか?みなさんの中でも多くの国々と交流してこられた方々には同感を得られるのではないでしょうか?私の最初の海外駐在は、1964年から翌年の7月迄オーストラリアでした(任期半ばで北京に行けとの本社指示で急遽帰国、同9月に訪中)。
当時のオーストラリア人の一般的対日感情はあまり良くありませんでした。第二次大戦で
交戦国だっただけでなく、特殊潜航艇、3艇がシドニー湾迄侵攻した為でもあり、キャンベラの博物館の屋外に展示してある1艇を見せられたこともあります。
★日本の特殊性は、天皇制が連綿と1,500年以上も続き、99%は大和民族(殆どの沖縄人は南方系縄文人の末裔でウチナンチューと自称し、我々をヤマトンチューと呼んでいる。北方系縄文人の末裔であるアイヌ人は、現在7-8万人のみ)で、単一民族に近い。 有史以来権力闘争や内戦はあったが、国家分裂の経験をしていない。又四方は海に囲まれ歴史上ほとんど閉鎖的社会であった。その為他民族との交流経験や民族抗争が庶民レベルではほとんどなく、やや偏狭である(島国根性)。何処からでも200㎞足らずで海に到達、無意識の中に見知らぬ他人への思いやりも育成されてきた。一方相対的に平地が少なく、資源が乏しく、毎年の如く台風に見舞われる上に地震や火山の被害に遭ってきて自然を恐れ
自然に感謝する生活習慣が根付く一方、どんな災難も速やかに克服し、働き者の国民性を育んできたとも言えるでしょう。春秋戦国時代から断続的に大陸移民(戦争難民が大半)があり、更に3-4世紀以降は半島からも沢山の朝鮮人が渡来、外来文化を持ち込み、5-9世紀には半島から組織的に渡来文化が入ってきた。混血し弥生人、古墳時代人となった。縄紋文化と外来文化の衝突は、更なる創意工夫がされ、ブラッシュアップする習慣にもなった。明治維新後短期間に欧米文化をも吸収消化し改善する下地になったと思われる。
★一方中国は、長江一帯の河姆渡、良渚文化を経て、黄河周辺の龍山、二里頭文化に継承され夏王朝に至り、現代に至っている。洛陽と鄭州を結ぶ線のほぼ中間地帯で発見され、二里頭遺跡からは、北京の故宮(紫禁城)につながる宮殿の配置の原型も確認されている。
更に王権の象徴である龍の形を玉板で大きく造形したものも発見され、玉璋も発見され他地域の小国宮殿遺跡からも類似品が出土しており、連綿とした中華文明が4,000年以上に亘り続いていることが実証されている。長期に亘り中断している他の三大文明とは明らかに異なる。王朝としては大小100余の興亡があり、領土の大小も付随的に大幅に変化して
いるが、他民族の文化や人種も受け入れ吸収して大半は漢民族となった。従い、世界の常識に関係なく、自己中心的であり、判断基準も国際的に認められているものは、自己に不利にならない場合のみ、是認する思想、中華思想として定着している。歴史の大半を抗争
の中で生きてきた彼らは、自己主張を繰り返し、絶対的に強いもの(国)へは秋波を送るが、相手が組し易しとなれば威圧的になり、明らかに弱いと見れば援助したり、保護したりするのが、外交関係だけでなく、風俗習慣にもなっている。(続く)
お願い:私のブログに対しご遠慮のない、ご意見や異論をお寄せください。
「参考になり役に立つ」とのことでしたら、知人達にもご一覧願えるようお奨め下さい。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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この数年来中国の治安状況は、油断がならない状況になったように思われる。尖閣諸島問題に関連し、自由に日本語の使用もままならないとすれば異常状態と言う他ないが、中国で仕事をし生活されている皆さんにはくれぐれも注意して下さい。
騒乱や集団での争議(100人以上の)は2003年には58,000件、04年は74,000件、05年は87,000件、06年には10万件以上、昨年には17万件に達したとのこと。
以前も記しましたが、1972年9月以前の国交正常化前は、街中日本人大歓迎で何処でも「外賓」として扱われ、一般市民も日本人に対して極めて友好的でした。日本に対してだけでなく、あるアメリカ人が北京の友諠商店近くで、みすぼらしい恰好した中国の青年を侮蔑した様な言動をしたことに対し、その青年は怒り心頭、ナイフで刺してしまった。軽傷ではあったが、その青年は直ちに裁判にかけられ「国家的対外信用を傷つけた」として、直ちに死刑に処せられたとのことであった。今は正に様変わりである。
経験上注意点を若干下記致します。
1.「侮辱した」と誤解が生じるような言動は、厳に慎んでください。
2. 外出時レストラン等では、トイレに行く場合等手荷物は自分で携行するか、椅子カバー内にしっかり入れると共に、同行者に注意するよう依頼して下さい。
3.買い物時等、不用意に手荷物を足元に置くのは大変危険で、リレー式集団置引の被害に遭う恐れがあります。手で持ったままでいるか、又はカウンターに乗せて下さい。
4.散歩コースには、地方からの不特定多数の人達の集まる駅前や長距離バスターミナル等は避けて下さい。実は私は本来いろんな人間模様が観察できるこの様な場所に行くのが好きでしたが、そと都度中国の友人達から注意を受けました。
5.アパートにお住いの方に対し:入口の防犯扉はしっかり締めて下さい。アパートの敷地に入るには守衛がおり、建屋に入るには暗証番号があると思いますが、住人の中にも油断できない人がいるものです。私の北京の友人は以前、「旅行するので留守をお願いします」と隣人に依頼したが、何とその隣人にへそくりを盗られてしまったとのことです。
6.ホテルやアパート等で、夜中に大騒ぎしている人達がいる場合、直接注意するのは大変危険です(ひどい目にあったことあり)。必ず管理者や中国側責任者を通じて騒音防止の協力を依頼して下さい。
最近日本での安全状況も悪くなったと言われていますが、殆どの一戸建ての家屋を囲む 塀は生垣のみだったり、容易に乗り越えられる高さだったりです。又、人気のない街角や郊外に自動販売機が置かれており、小さな建屋にATMがあったりしています。更に私の参加する各種の集まりでも手荷物預かり所はなく、バッグ等ホールの隅っこや椅子の上に置いたままです。まだまだ日本の安全神話は健在だと思われます。
皆さんのご無事をお祈り致します。
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生活したことがある。この技術援助はその後も7年余継続され、中国の森林面積拡大の
基礎技術提供、指導面で大きな貢献をした。日本の国土の66-7%は森林で殆ど増減していないが、1996年当時中国では14%程度であった。最近は20%を超えたとのことで、増加率は顕著であり、大いに評価されて良いと思う。
ところで武漢の全体的印象であるが、私が中国各地を放浪した経験からでは、大連に次いで親日的な都市である。古くは秦の始皇帝が国家統一を果たす前は楚の国の中心地帯であり、更に古くは黄河文明に数千年遡る長江文明地帯でもあり(稲作の日本への伝播等日本との関係は最も古い)、今尚当地の人々は楚文化の継承者としての誇りを持っている。極端にデフォルメされた塑像等公園で見かけることもあろうが、これも楚芸術の一面である。武漢に長期居住される方には新味がないかも知れないが、お奨めポイントを下記しよう。私は今なお毎年武漢を訪れている。
1. 東湖:杭州の西湖の5倍もの大きな湖だが市内にあり、東湖には磨山を含む半島や入り江が沢山あり、湖中路も整備されている。磨山の南には日本以上に日本らしい 桜花園があり(みちのく銀行寄贈の由)、赤い太鼓橋や木造の五重塔も配置され、桜の種類も多く3月下旬が見頃である。広州他遠方から何万と言う人々が花見に来ている。武漢大学にも桜の古木が沢山あり、桜花路と言う通路も校内にある程である。
2. 咸寧の温泉:武漢市の南側に隣接する昔からの温泉都市であり、何度も遊びに行った。温泉場により各種の混浴もある。即ち日本式と言う小さい風呂が沢山ある形式、自然な池の様な形式、更にはプール形式等である。その一つ、太乙国際温泉度假村では地下に続く鍾乳洞もあり、中国各地で見た中では一番良かった。友人達との、又は家族での遊興にお奨めである。
3. 湖北省博物館:東湖西岸近くにあり、数年前に壮大な規模で新設された。黄河文明に遡る長江文明理解に最適であり、私は旧館時代から10回近く見学した。特に下述の編鐘は、武漢の170㎞北西随州の曾公乙墓で丸ごと出土した(生活用品や工芸品等も合計15,000点出土)。展示品コーナーでは、BC5-6世紀の青銅器文化の精華と地方王侯(大名相当)の豊かな生活が理解できる。出土記録により、編鐘は楚の恵王(将軍相当)よりBC433年に贈られたものと判明している。
編鐘:65個の鐘で構成され、握りこぶし程度の大きさから普通の寺院の鐘に近い大きさ迄あり、総重量は2,500㎏に達する。演奏者も多い時は編鐘だけで4人がかりで、琴や笛、笙、太鼓、石磬等と共に演奏されるが、博物館内の小劇場では舞踊を伴う演奏がある。編鐘初め他の古代楽器も全て複製品である。同様公演は東湖の磨山中腹の楚天台、黄鶴楼東端の小劇場、荊州博物館内劇場(武漢の200km西方)等でもある。
孔子は音楽を重視したが、国や社会に於いて、夫々の立場の者が必要な能力を存分に発揮し且全体が調和する重要性を、この交響楽とも言うべき演奏と同じと見做したものと思われる。日本では弥生時代の文物として、銅鐸がかなり沢山出土しているが、その原型はこの編鐘ではないかと見られる(柳沢の個人的見解)。但し銅鐸の紐を掛ける部分は薄い板状で半円形になっているが、編鐘では丸棒状でくびれている
4. 漢口の旧租界地区:第二大橋近接地から順に、昔はドイツ、日本、ロシア、フランス、イギリスの租界があった。私が特に印象に残っているのは、日本租界の憲兵隊宿舎が補修されつつそのまま保存されていたことである。抗日歴史の教育用かと思ったら
建築学的に当時としては素晴らしいものだったとのこと(昔の帝国ホテルの如きレンガを使用していた)。もう一点は、僅か200m位しか離れていない処に、当時の抗日戦の連絡事務所があって、記念館として保存され対外開放されていたことである。当時の
日本人憲兵はその存在を把握していなかったと見られる。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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