教育のあるべき論を考えるのに、残念ながらここ二、三十年は問題の材料にこと欠かない。凶悪化する少年犯罪、公教育の劣化、いまだに続く知識偏重の受験教育、覇気を欠く国内志向の学生、学生の能力と企業ニーズのミスマッチ、グローバル化に対応できない日本企業、等々。本日、茶番劇のごとく内閣不信任案が否決されたが、そもそも日本の政治不能を引き起こした民主主義教育の在り方もその一つに違いない。

一方、今回の東日本大震災からも様々な教育のテーマが浮かんでくる。防災教育の在り方、PTSD(心的外傷後ストレス障害)への対応、コミュニティー教育の在り方、原発等の難しい問題の議論の在り方、個人による情報収集と判断能力の育て方、リーダーシップの育て方、復興のために必要な教育、等々。

教育に関するテーマは元々広範だが、大震災はその極限的な役割を照らし出しているのではないかと思う。それは、「生きていくための力を養う教育」であり、「自立した大人を育てていくための教育」だ。対象は何も子供に限った話ではない。私を含めた大方の大人にも、継続的に、おそらくは死ぬまで必要な教育だ。

それでさえも、その具体的な内容や形は多岐に亘るだろう。危機に瀕した場合のサバイバル教育、困難を乗り越えるための教育から、ゼロベースでものを考えるための教育、自己実現のための教育、更には真の民主主義を発展させるための教育にまで及ぶだろう。言わば際限がなく、どんな教育でもこの範疇に入ってしまうかもしれない。

しかし、教育の効果・効率を上げるべく、その内容や方法論を真剣に考えれば、上記の様々な教育の本質や階層性を考えざるを得ないだろう。社会も個人も、時間やエネルギーが限られているからだ。

私は以前から戦後の日本の家庭教育、学校教育に欠けていたある部分が気になっていた。それは大震災のような非常時ではなくとも通常時から必要になるはずの「生きていくための教育」である。つまり「大人になるということは?」、「自己実現ということは?」、「働くということは?」「結婚をするということは?」、「親になり、子供を育てるということは?」「歳をとるということは?」、そして「死ぬということは?」、、、。それは失業した時にはどうするかという実用的な知識であったり、自己実現のように具体的な答えは与えられないが、それを自分で見つけるための考え方であったりする。かつては、道徳教育の一環として触れられていた部分があるかも知れない。

私は、その本質はアイデンティティーの問い、即ち「自分という人間は何者であって、どこから来て、どこへ行こうとしているのか?」、言いかえれば哲学の問いだと考えている。

なぜ、この問いが本質であり、重要なのか?今、問題となるのか?それは、一瞬のサバイバルから長い人生まで、様々な思考の時間スケールを取り去って共通項を抜き出せば、「外界や環境を正しく認識し、その中で得た情報から将来を的確にシミュレートし、そのあり得べきシナリオの中で自己の存続や実現を最大限に図ろうとする能力」に他ならないと思うからだ。ここでの「自己の存続・実現」は、もちろん他を犠牲にして成り立つものではなく、他との適切な関係性において成り立つものである。

教育学の分野で様々な「能力」がいかなる要素から成り立っているかという研究は昔から多いが、最近の脳科学の発展によって、その知見は深化しつつある。例えば、言語能力や空間認識能力等の特殊能力が脳の局所的なニューロン群と対応している仕組みはかなり詳細に分かっている。しかし、それらの特殊能力とともに、全ての特殊能力試験結果と高い相関関係を示す一般能力の存在が示唆されている。それは、全ての特殊能力の背後にあるものか、特殊能力が統合されたものかはまだ完全に分かっていないが、今後明らかになっていくであろう。

いずれにしても、そのような一般能力を育てるのに有効と考えられる教育を試行錯誤しながらでも強化していくことが最も重要であり、「急がば回れ」ではないだろうか。人生において否応なしに遭遇する様々な困難になんとか対処していけるということは、どんな人でも、どんな場合でも最も必要なことに違いない。

ヴィブランド・コンサルティング
代表取締役 澤田康伸