我々が法律を勉強するという場合、普通には法律の解釈を学ぶということだ。法
律の解釈学である。大学の二部(夜間)で法律を学んでいた頃、今でも忘れられな
いエピソードがある。4年になったら小人数のゼミがあるが、私は刑法のゼミを選
択した。

 そこで、未必の故意について教授が説明しているとき、ある学生が、「未必の故
意とか人の内心についてどうして分かるのか」と疑問を呈した。そうすると、教授
が烈火のごとく「今ごろ何を言うか」と怒ったのである。

 刑法199条は、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以下の懲役に処す
る」と規定している。殺人罪の規定である。ここで、「人を殺した」とは、故意
(殺意)をもって他人の生命を奪うことである。この「故意」には、確定的な殺
意がある場合と、確定的には殺意はないが、死ぬかもしれないということを知り
ながら、しかも、死んでもかまわないと思う場合がある。これを未必の故意とい
う。この場合も殺人罪が成立する。

 学生は、このような内心をどうして判断するのかという疑問を呈したのである。
しかし、3年間一応法律を学んだ人の質問ではないのである。初めて法律を学んだ
人と同じレベルの質問なのだ。

 宅建の講習をしていたときも、このような種類の質問がよくあった。民法では、
善意(ある事情について知らないこと)とか悪意(ある事情について知っている
こと)とかよく出てくる。そこで、「善意とか、悪意とかどうして分かるか」と
いう質問である。

 法律の解釈においては、人の内心がどうして分かるかということは問題ではな
い。法律の解釈は、故意がある場合にはどうなる。善意の場合にはどうなる。悪
意の場合にはどうなる、ということを理解すればよい。法律の解釈は、問題解決
のためのルール、決まりごと、約束事、公式のようなものである。

 水素+酸素=水。という公式のようなものだ。水素というけど、どうしてそれ
が水素と分かるのですか、ということを問題にしないことと同じだ。それは水素
や酸素であることを前提としているのである。

 故意・善意・悪意という内心の事実を前提にしているのだ。法律の解釈はそれ
を前提にして考えればよい。

 検察官が、殺人罪で起訴した被告人が、裁判所で、故意(殺意)を否定した場
合、ナイフを持って被害者の胸を刺したのであるから、殺意を認めるとか、認め
ないとかの判断を裁判官がするのである。

 内心がどうして分かるか、という問題は、裁判において解決される。法律の解
釈においては問題にすべきではないのだ。それは、解釈の問題を超えて、事実の
適用の問題になる。

 裁判官は法律の専門家というけど、法律の解釈の専門家である。本当にそれが
法律にいう故意に当るかどうかなどの事実判断については、必ずしも専門家では
ない。事実判断については、色々な経験が物を言う。

 裁判官は、同じ役人の警察官や検察官の言うことを信じる性質を持っている。
「職業柄嘘を言うとは思えない」とか「嘘をいう必要性がない」とか言って信じ
ている。このような判決文がよくある。

 だから、今回の裁判員制度で一般人が事実判断に参加することは良いことなの
だ。むしろ、「行政裁判」にこそ必要だ。行政のやることをそのまま追認する傾
向にある裁判官が多いのだから。

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