9月9日は、五節句の最後をしめくくる重陽の節句ですね。

元旦、ひな祭り、端午の節句、七夕祭りにつづいて、
奇数月同数日最後の節句。
(11月11日は、世界平和記念日だけど、節句じゃないのだ。^^;)

この日は九という陽の数字(奇数)の最大値が二つ重なることから、
めでたい日とされました。

1月1日、3月3日、5月5日、7月7日と来て、なにゆえ9月9日は最後の五節句というのに、重宝されていないのだろうか?^^;

理不尽を感じる。いっそ、ゾロ目の月日は、国民的休日にして、祭りを催すことが活性化につながるぞ。

「重九(ちょうく)」とも呼ばれるこの日は、また、菊の節句としても有名で、マイナーでしょうが、
全国あちこちで菊の品評会や菊人形などが見られることでしょう。。

中国には、この日に野に出て丘にのぼり、
丘の上で秋の山野を眺めながらの酒宴をひらく風習がありました。

これは、次のような伝説に由来します。

昔むかし、周の穆(ぼく)王に仕えた慈童は過ちを犯したため、虎狼が充満するリ県山に流刑されました。

王はこれを哀れみ、法華経の中の二句を授け、毎朝これを唱えるようにと申し伝えました。
(許してやれば、いいものを。^^;)

慈童はこの句を忘れぬようにと、仮小屋の側に生えている菊にこの句を書きとめたところ、
菊に溜まった露が下の流れに落ち、谷川の水が天の霊薬になったと云います。

慈童がこの水を飲むと天の甘露のように美味で、虎狼も恐れて近づかなくなり、
しかも慈童は不老不死の長寿を得て、800年あまり経ってもなお少年の童顔であったとか。
(ううむ。。これはこれで、イヤだなあ。^^;すさまじい呪いの終身刑かも?爆!)

時代は移り、魏の文帝の時、慈童は仙術を文帝に授けました。

文帝はこれを菊花の盃に伝えて、万年の寿をされ、これが「重陽の宴」の始まりとされていますね。

酒宴では、髪に赤いカワハジカミの実のついた枝をさして菊花酒を飲み、
長寿と共に邪気を祓(はら)い災厄を除くことを願ったといいます。

カワハジカミの実は体内の毒気を除く妙薬、菊は延命長寿の霊薬と考えられていたのです。

これらは遣隋・遣唐使によって日本に伝えられました。

宮廷で重陽の宴を催したのは天武天皇が始めたとのことです。

しかし当時は、一部の文人や宮廷の中の人々のみが、薬用としての菊の花を目にし、
「重陽の節句」を知ることができました。

後になって、「着せ綿」(前日に菊に綿を被せ、露で塗れた綿で体を拭い長寿を呪うもの)や、
「菊合せ」(平安時代は菊の歌の優劣を競い、後は菊花の優劣を競った品評会)等の
行事が広まっていきます。

江戸時代には、「菊花の宴(重陽の宴)」は五節句の一つに挙げられ、
旧暦の九月九日に諸大名が江戸城に集まり、菊酒を飲み、栗飯を食べて菊花を観賞する行事として定着しました。

これからは、一般庶民も広く行なうようになったようです。

現代では、あまり知悉されてない「重陽の節句」ですね。

この日、菊の露で濡れた綿で、肌を撫でれば、美人になり、若さを保つことができるといわれ、
平安時代の女官たちや江戸時代の大奥では、この日の「着せ綿」はさかんに行われていたようです。
うふふ。やってみます?呪をこめて。

菊というほどだから、効くだろうな。(笑)