2012年 9月の記事一覧
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12年09月21日 09時17分42秒
Posted by: kinokagaku
暦を買うと、暦の下段に、「●日」と記してある日があります。
「受死日(じゅしにち)(じゅしび)」と呼ぶそうで、暦の下段に「●」の印で表されることから黒日(くろび)ともいうとか。
この日は最悪の大凶日とされ、この日には他の暦注は一切見る必要がないという注釈が
ついてました。^^;。
他の暦注にある、十二直や九星、宿曜あるいは同じ暦下段の吉日なども一切構わず、
如何なる吉も真っ黒けに「●」と塗りつぶしてしまうとは、まさに最凶最悪、
凶悪のブラックホール日やあ。。(笑)
この日に病を患えば、死に至るとまで言われる日です。^^;
おちおち風邪も引けやしないが。(笑)
病気見舞い、服薬、針灸、旅行が特に凶とされていますが、葬式だけは差し支えないとしていますね。w
受死日の決め方は、他の多くの暦注と同様、節切りの月と日の十二支によって決まります。
その割には、他の暦注を見る必要なしと言われる事由が見当たらない。^^;
節切りとは、暦注の日取りを節月によるもの、すなわち、二十四節気の節気からの干支や日数で決めるもので、俳句の季語の分類も、この節切りによるものです。
例えば、節切りによる正月は「旧正月節」と呼ばれ、立春から啓蟄の前日までとなります。
受死日の配当は節切りで、以下のようになっています。
旧1月節は戌の日。 旧2月節は辰の日。 旧3月節は亥の日。 旧4月節は巳の日。
旧5月節は子の日。 旧6月節は午の日。 旧7月節は丑の日。 旧8月節は未の日。
旧9月節は寅の日。 旧10月節は申の日。 旧11月節は卯の日。 旧12月節は酉の日。
例えば、2012年9月をみると、9月7日が白露で「旧8月節」に入り、未の日を選べば、
9月7日、19日、10月1日が●日となります。
9月19日も10月1日も、「六曜」では大安、「十二直」では「ひらく」日ですが、
真っ黒けに悪日とするとか。^^;
そもそも、節切りは二十四節気から正確に太陽との軌道、公転周期を計るものですが、
それをこのような十二支の日に配当する意味と意義が全く不明です。><
暦下段で、受死日(黒日)の次に凶日とされ、全てのことに凶とされるのは、十死日
(じゅうしにち)です。
暦によっては「十し」と書かれるもので、「じっしび」と読まれることもあります。
「十死一生の日」の略で、「十死一生」は「漢書」外戚伝にある成語で、ほとんど助かる見込みがないこと。
九死一生をさらに強めた語ですから、生きる見込みなく、極めて危険で、助かる見込みのない日というわけですね。^^;
「十死日」は、特に、戦闘・嫁取り・葬送に悪いとされていますが、「受死日」と違い、葬式も差し支え
ありとされます。
受死日の配当も節切りで、以下のように、酉・巳・丑の繰り返しになっていますよ。
旧1月節は酉の日。 旧2月節は巳の日。 旧3月節は丑の日。 旧4月節は酉の日。
旧5月節は巳の日。 旧6月節は丑の日。 旧7月節は酉の日。 旧8月節は巳の日。
旧9月節は丑の日。 旧10月節は酉の日。 旧11月節は巳の日。 旧12月節は丑の日。
例えば2012年10月は、8日が二十四節気の「寒露」で旧9月節入りです。
丑の日を選べば、10月19日、31日が、「十死日」となりますね。
はてさて、これも各節月が、何ゆえ酉・巳・丑の西方金気三合の十二支と組み合わせて、
十死一生の日となるというのか、全くもって、不可解千万で、意味不明です。
-- 「受死日」も「十死日」も、ともに暦注下段(れきちゅうげだん)の選日です。
暦注下段とは、暦の最下段に書かれていた日々の吉凶についての暦注で、単に下段とも呼ばれています。
市販の暦では、下段ではなく行事の欄に記載しているものもありますね。^^;
これらの暦注下段には迷信的な要素が多く、その弊害も大きいことから、日本では朝廷・政府などから
3回も禁止され、また識者からの批判も多かったものですが、なかなか改められず、現在まで庶民の間で
根強く生き残っているモノなのです。
信憑性も理論的根拠もなく、迷信とされてなお、風習や慣習として残ったり、今もこよみを見る人に影響を
与えるのですから、なんとも強い「呪(しゅ)」でありますことよ。(ワラ)
どうせ、迷信に過ぎないのに未だ結婚や葬儀などの行事に呪縛を与えている、「六曜」の大安、仏滅、
友引を暦に書くのだったら、「下段」には、神吉、大明、天赦、月徳日などの吉日を載せておき、
良い縁起を増やすと良いと思うぞ。^^;
「受死日(じゅしにち)(じゅしび)」と呼ぶそうで、暦の下段に「●」の印で表されることから黒日(くろび)ともいうとか。
この日は最悪の大凶日とされ、この日には他の暦注は一切見る必要がないという注釈が
ついてました。^^;。
他の暦注にある、十二直や九星、宿曜あるいは同じ暦下段の吉日なども一切構わず、
如何なる吉も真っ黒けに「●」と塗りつぶしてしまうとは、まさに最凶最悪、
凶悪のブラックホール日やあ。。(笑)
この日に病を患えば、死に至るとまで言われる日です。^^;
おちおち風邪も引けやしないが。(笑)
病気見舞い、服薬、針灸、旅行が特に凶とされていますが、葬式だけは差し支えないとしていますね。w
受死日の決め方は、他の多くの暦注と同様、節切りの月と日の十二支によって決まります。
その割には、他の暦注を見る必要なしと言われる事由が見当たらない。^^;
節切りとは、暦注の日取りを節月によるもの、すなわち、二十四節気の節気からの干支や日数で決めるもので、俳句の季語の分類も、この節切りによるものです。
例えば、節切りによる正月は「旧正月節」と呼ばれ、立春から啓蟄の前日までとなります。
受死日の配当は節切りで、以下のようになっています。
旧1月節は戌の日。 旧2月節は辰の日。 旧3月節は亥の日。 旧4月節は巳の日。
旧5月節は子の日。 旧6月節は午の日。 旧7月節は丑の日。 旧8月節は未の日。
旧9月節は寅の日。 旧10月節は申の日。 旧11月節は卯の日。 旧12月節は酉の日。
例えば、2012年9月をみると、9月7日が白露で「旧8月節」に入り、未の日を選べば、
9月7日、19日、10月1日が●日となります。
9月19日も10月1日も、「六曜」では大安、「十二直」では「ひらく」日ですが、
真っ黒けに悪日とするとか。^^;
そもそも、節切りは二十四節気から正確に太陽との軌道、公転周期を計るものですが、
それをこのような十二支の日に配当する意味と意義が全く不明です。><
暦下段で、受死日(黒日)の次に凶日とされ、全てのことに凶とされるのは、十死日
(じゅうしにち)です。
暦によっては「十し」と書かれるもので、「じっしび」と読まれることもあります。
「十死一生の日」の略で、「十死一生」は「漢書」外戚伝にある成語で、ほとんど助かる見込みがないこと。
九死一生をさらに強めた語ですから、生きる見込みなく、極めて危険で、助かる見込みのない日というわけですね。^^;
「十死日」は、特に、戦闘・嫁取り・葬送に悪いとされていますが、「受死日」と違い、葬式も差し支え
ありとされます。
受死日の配当も節切りで、以下のように、酉・巳・丑の繰り返しになっていますよ。
旧1月節は酉の日。 旧2月節は巳の日。 旧3月節は丑の日。 旧4月節は酉の日。
旧5月節は巳の日。 旧6月節は丑の日。 旧7月節は酉の日。 旧8月節は巳の日。
旧9月節は丑の日。 旧10月節は酉の日。 旧11月節は巳の日。 旧12月節は丑の日。
例えば2012年10月は、8日が二十四節気の「寒露」で旧9月節入りです。
丑の日を選べば、10月19日、31日が、「十死日」となりますね。
はてさて、これも各節月が、何ゆえ酉・巳・丑の西方金気三合の十二支と組み合わせて、
十死一生の日となるというのか、全くもって、不可解千万で、意味不明です。
-- 「受死日」も「十死日」も、ともに暦注下段(れきちゅうげだん)の選日です。
暦注下段とは、暦の最下段に書かれていた日々の吉凶についての暦注で、単に下段とも呼ばれています。
市販の暦では、下段ではなく行事の欄に記載しているものもありますね。^^;
これらの暦注下段には迷信的な要素が多く、その弊害も大きいことから、日本では朝廷・政府などから
3回も禁止され、また識者からの批判も多かったものですが、なかなか改められず、現在まで庶民の間で
根強く生き残っているモノなのです。
信憑性も理論的根拠もなく、迷信とされてなお、風習や慣習として残ったり、今もこよみを見る人に影響を
与えるのですから、なんとも強い「呪(しゅ)」でありますことよ。(ワラ)
どうせ、迷信に過ぎないのに未だ結婚や葬儀などの行事に呪縛を与えている、「六曜」の大安、仏滅、
友引を暦に書くのだったら、「下段」には、神吉、大明、天赦、月徳日などの吉日を載せておき、
良い縁起を増やすと良いと思うぞ。^^;
12年09月04日 08時25分05秒
Posted by: kinokagaku
9月9日は、五節句の最後をしめくくる重陽の節句ですね。
元旦、ひな祭り、端午の節句、七夕祭りにつづいて、
奇数月同数日最後の節句。
(11月11日は、世界平和記念日だけど、節句じゃないのだ。^^;)
この日は九という陽の数字(奇数)の最大値が二つ重なることから、
めでたい日とされました。
1月1日、3月3日、5月5日、7月7日と来て、なにゆえ9月9日は最後の五節句というのに、重宝されていないのだろうか?^^;
理不尽を感じる。いっそ、ゾロ目の月日は、国民的休日にして、祭りを催すことが活性化につながるぞ。
「重九(ちょうく)」とも呼ばれるこの日は、また、菊の節句としても有名で、マイナーでしょうが、
全国あちこちで菊の品評会や菊人形などが見られることでしょう。。
中国には、この日に野に出て丘にのぼり、
丘の上で秋の山野を眺めながらの酒宴をひらく風習がありました。
これは、次のような伝説に由来します。
昔むかし、周の穆(ぼく)王に仕えた慈童は過ちを犯したため、虎狼が充満するリ県山に流刑されました。
王はこれを哀れみ、法華経の中の二句を授け、毎朝これを唱えるようにと申し伝えました。
(許してやれば、いいものを。^^;)
慈童はこの句を忘れぬようにと、仮小屋の側に生えている菊にこの句を書きとめたところ、
菊に溜まった露が下の流れに落ち、谷川の水が天の霊薬になったと云います。
慈童がこの水を飲むと天の甘露のように美味で、虎狼も恐れて近づかなくなり、
しかも慈童は不老不死の長寿を得て、800年あまり経ってもなお少年の童顔であったとか。
(ううむ。。これはこれで、イヤだなあ。^^;すさまじい呪いの終身刑かも?爆!)
時代は移り、魏の文帝の時、慈童は仙術を文帝に授けました。
文帝はこれを菊花の盃に伝えて、万年の寿をされ、これが「重陽の宴」の始まりとされていますね。
酒宴では、髪に赤いカワハジカミの実のついた枝をさして菊花酒を飲み、
長寿と共に邪気を祓(はら)い災厄を除くことを願ったといいます。
カワハジカミの実は体内の毒気を除く妙薬、菊は延命長寿の霊薬と考えられていたのです。
これらは遣隋・遣唐使によって日本に伝えられました。
宮廷で重陽の宴を催したのは天武天皇が始めたとのことです。
しかし当時は、一部の文人や宮廷の中の人々のみが、薬用としての菊の花を目にし、
「重陽の節句」を知ることができました。
後になって、「着せ綿」(前日に菊に綿を被せ、露で塗れた綿で体を拭い長寿を呪うもの)や、
「菊合せ」(平安時代は菊の歌の優劣を競い、後は菊花の優劣を競った品評会)等の
行事が広まっていきます。
江戸時代には、「菊花の宴(重陽の宴)」は五節句の一つに挙げられ、
旧暦の九月九日に諸大名が江戸城に集まり、菊酒を飲み、栗飯を食べて菊花を観賞する行事として定着しました。
これからは、一般庶民も広く行なうようになったようです。
現代では、あまり知悉されてない「重陽の節句」ですね。
この日、菊の露で濡れた綿で、肌を撫でれば、美人になり、若さを保つことができるといわれ、
平安時代の女官たちや江戸時代の大奥では、この日の「着せ綿」はさかんに行われていたようです。
うふふ。やってみます?呪をこめて。
菊というほどだから、効くだろうな。(笑)
元旦、ひな祭り、端午の節句、七夕祭りにつづいて、
奇数月同数日最後の節句。
(11月11日は、世界平和記念日だけど、節句じゃないのだ。^^;)
この日は九という陽の数字(奇数)の最大値が二つ重なることから、
めでたい日とされました。
1月1日、3月3日、5月5日、7月7日と来て、なにゆえ9月9日は最後の五節句というのに、重宝されていないのだろうか?^^;
理不尽を感じる。いっそ、ゾロ目の月日は、国民的休日にして、祭りを催すことが活性化につながるぞ。
「重九(ちょうく)」とも呼ばれるこの日は、また、菊の節句としても有名で、マイナーでしょうが、
全国あちこちで菊の品評会や菊人形などが見られることでしょう。。
中国には、この日に野に出て丘にのぼり、
丘の上で秋の山野を眺めながらの酒宴をひらく風習がありました。
これは、次のような伝説に由来します。
昔むかし、周の穆(ぼく)王に仕えた慈童は過ちを犯したため、虎狼が充満するリ県山に流刑されました。
王はこれを哀れみ、法華経の中の二句を授け、毎朝これを唱えるようにと申し伝えました。
(許してやれば、いいものを。^^;)
慈童はこの句を忘れぬようにと、仮小屋の側に生えている菊にこの句を書きとめたところ、
菊に溜まった露が下の流れに落ち、谷川の水が天の霊薬になったと云います。
慈童がこの水を飲むと天の甘露のように美味で、虎狼も恐れて近づかなくなり、
しかも慈童は不老不死の長寿を得て、800年あまり経ってもなお少年の童顔であったとか。
(ううむ。。これはこれで、イヤだなあ。^^;すさまじい呪いの終身刑かも?爆!)
時代は移り、魏の文帝の時、慈童は仙術を文帝に授けました。
文帝はこれを菊花の盃に伝えて、万年の寿をされ、これが「重陽の宴」の始まりとされていますね。
酒宴では、髪に赤いカワハジカミの実のついた枝をさして菊花酒を飲み、
長寿と共に邪気を祓(はら)い災厄を除くことを願ったといいます。
カワハジカミの実は体内の毒気を除く妙薬、菊は延命長寿の霊薬と考えられていたのです。
これらは遣隋・遣唐使によって日本に伝えられました。
宮廷で重陽の宴を催したのは天武天皇が始めたとのことです。
しかし当時は、一部の文人や宮廷の中の人々のみが、薬用としての菊の花を目にし、
「重陽の節句」を知ることができました。
後になって、「着せ綿」(前日に菊に綿を被せ、露で塗れた綿で体を拭い長寿を呪うもの)や、
「菊合せ」(平安時代は菊の歌の優劣を競い、後は菊花の優劣を競った品評会)等の
行事が広まっていきます。
江戸時代には、「菊花の宴(重陽の宴)」は五節句の一つに挙げられ、
旧暦の九月九日に諸大名が江戸城に集まり、菊酒を飲み、栗飯を食べて菊花を観賞する行事として定着しました。
これからは、一般庶民も広く行なうようになったようです。
現代では、あまり知悉されてない「重陽の節句」ですね。
この日、菊の露で濡れた綿で、肌を撫でれば、美人になり、若さを保つことができるといわれ、
平安時代の女官たちや江戸時代の大奥では、この日の「着せ綿」はさかんに行われていたようです。
うふふ。やってみます?呪をこめて。
菊というほどだから、効くだろうな。(笑)
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